お里んの碑(故郷を愛した人情作家 棟田 博)

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 故郷を愛した人情作家 棟田 博(明治41~昭和63)が、故郷を題材にした作品『ハンザキ大明神』、『美作ノ国吉井川』、『宮本武蔵』、『そして、御犬小屋が残った』などがあり、多くがドラマ化された。なかでも吉井川を往来していた高瀬舟をテーマにした『美作ノ国吉井川』の女主人公・お里んの碑が津山市民の手で愛染寺に建てられた。昭和47年には津山市文化賞を受賞している。

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お里んの碑
 棟田が恩師の長谷川伸についてこう語っている。「そもそも長谷川伸が、大衆のために書いた多くの作品は、つねに貧しい者、虐げられた者の立場に立ち、彼らに勇気をふるい立たせた。生きる信念を理屈でなく、物語りのなかで教えるというものであった。人情愛を説き正義を称え、しかも悪にも慈愛の涙を惜しみなくそそぐ、それらが作品の低流となって、日本人らしさを謳いあげていた」と。


 棟田は文壇にデビューしたときから、帰還作家と呼ばれるようになり、火野、上田、日比野らといっしょに行動した。昭和15年の宣昌作戦の報道班員として戦場に出かけるようになり、中国のほか太平洋戦争でもアジア各地をかなり広く歩いている。同じ作州出身の木村毅とも多く同行している。終戦は中国の大同で迎えた。帰還して、東京の家は跡形もなく焼け、ねぐらを探したが、なかなか見つからず、宇都宮市郊外の中島飛行機の徴用工員寮の一室にやっとおちついた。
 しかし世の中は民主々義となり、兵隊作家には洟もひっかけてくれなかった。彼は「牛を馬に乗りかえたマスコミ」というか、もてはやされるのは好色と乱倫、背徳と享楽を書く作家たちであったと胸中で嘆いた。戦後も十年ほど経って、やっと原稿の依頼があるようになった。作家もかなり追放になったが、兵隊作家といわれたなかでは火野葦平だけがパージにひっかかった。報道部から命じられて徐州作戦の従軍記を書いたのに、なぜ一人だけをパージにしたのかと棟田は怒る。実は火野は先輩ながら共に早稲田大学中退組であったことで、よく二人は飲み歩いたらしい。火野は眼底出血で禁酒をいわれていた。しかし火野は酒を止めようとしなかった。昭和35年1月火野の死が報じられた。あとで自殺とわかったが、なぜなのか原因がよくわからない。棟田は口惜しいと漏らしている。


 棟田作品を集めた兵隊小説文庫がある。全九巻もので「兵隊日本史」の三部作もある。そのなかの「拝啓天皇陛下様」は拝啓シリーズの先鞭をつけた。あるいは「サイパンから来た列車」は代表作の一つといわれるユニークな作品だ。
 また彼の力作とされる「桜とアザミ」もある。神奈川県の茅ヶ崎市にながく住み、昭和42年から同市の教育委員となり、死の前年まで約20年間を勤めていた。その立場から59年7月に「教育元年ドン・キホーテ」の出版がある。戦後ヤミを拒否して死んだ山口判事の日記に感動し、徴用工宿舎の3年の体験が基礎になっている。
 坂東俘虜収容所を書いた「桜とアザミ」と、詩人野口雨情を書いた「昭和浪漫詩人物語」について本人から筆をとるに至った事情を聞いていたことがある。熱情をこめて歴史を語った。そのあとで「ボクは津山とは離れられない」といった。何が彼をそうさせたのか、やはり作州人気質だろう。津山市は彼へ文化功労賞を贈った。市民の感謝の心である。津山愛染寺に「お里んの碑」が建っている。自筆になる文学碑だ。思えばせめてもの供養になった。昭和52年7月15日、78歳で彼はこの世から去っていった。今は富士霊園に眠る。

(津山市文化協会発行『津山の人物(1)』より)(2010年9月3日撮影)