【津山人】故郷を愛した人情作家 棟田 博(むねたひろし)

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棟田 博(むねたひろし) ー故郷を愛した人情作家ー
 「降るかとみればやみ、やむかと思えば降り、昨夜は危ぶまれたが、今朝は雲も見せぬ快晴である」と書き出しているのが「分隊長の手記」である。これが棟田博のデビューになった。彼が「赤紙」の戦時召集をうけたのは昭和12年、岡山の歩兵十聠隊に入ると第二次補充部隊要員として、北支の赤柴部隊に加わることになっていた。そして同13年5月の徐州会戦のとき、台児荘の戦闘で負傷、戦列を離れた。短い戦場体験であった。棟田は正規の徴兵検査に合格、軍隊生活をおくっていたので伍長になっていた。召集で分隊長であったのはそのためだ。「分隊長の手記」は14年3月号の「大衆文芸」から連載されたが、11月には単行本になって、翌年1月までの僅かな期間に30版を重ねた。すごい人気のデビューになったが、それには次のエピソードがあった。

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↑ 津山市文化協会発行『津山の人物(Ⅰ)』より

 棟田の書いたものに「もともと私には師はひとりしかいないんです。その人の名は文士長谷川伸先生です」とある。文士とは長谷川伸の文学精神とその人柄に、明治の文人の志操と気質をみたからだ。
 棟田の無名時代、彼の家に伝わっていた与力の手控帳のような古記録を、長谷川伸に送って、金5円の借金を申し込んだ。そうしたら長谷川から10円が送金されてきた。彼の家は町年寄りをしており、古記録があっても不思議はない。このあと召集をうけ、その挨拶状を長谷川に送ったら、こんどは長谷川から小包便が届いた。開封すると寄せ書の「日の丸」の国旗が出た。


 「新武運長久棟田博君」と大書きし、長谷川伸と夫人、令嬢のほか島田正吾、辰巳柳太郎、中野実、梅沢昇などの氏名が70余名記入されていた。彼が白衣で津山に帰ったのが昭和十五年の秋だったが、この武運長久の日の丸を大事にもってみんなに紹介したものだ。しかしこの日の丸に名を記入した人達には、棟田は誰にも会ったことはなかった。もちろん長谷川伸とも会っていない。そのころ火野葦平の「麦と兵隊」が大評判になっていた。「分隊長の手記」は体験記である。火野の作品とは味がちがうものが出来るとみた長谷川伸の助言によって、長谷川が主宰する「大衆文芸」でデビューさせたのである。そして新国劇が舞台にとりあげられた。みんな「日の丸」に武運長久の署名した人ばかりであった。
 評論家、真鍋元之は「麦と兵隊」は戦記文学の白眉であり不朽の戦争文学だ、それ以前のものは日露戦争のときの桜井忠温の「肉弾」と水野広徳「此一戦」だが、両者とも職業軍人だ。兵隊による兵隊の戦争文学は火野葦平により生まれ、続いて上田広の「建設戦記」日比野士郎の「呉淞クリーク」そして棟田の「分隊長の手記」であった。としている。

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 棟田博は明治41年11月5日、英田郡美作町(当寺の林野町)の伊藤家に生まれたが、親戚の棟田家のあとつぎとして親同志の話し合いがついており、少年期から津山市西新町の棟田家に移っていた。ここは船宿「若狭屋」をしており旅館料理業であった。津山の船宿というのは吉井川を往来する高瀬舟の客人が主たる対象であった。津山は奈良時代に美作国が置かれたとき、内陸のため備前片上港を外港に指定し、以後和気と津山の舟運が開かれた。活発になったのは備前西大寺と舟が往来するようになった江戸期以降である。棟田の代表作の一つとなった「美作国吉井川」は、この吉井川の舟運、中国鉄道に変わる明治の様子を描いたもので、わが家の船宿の経験がある。若狭屋が繁盛していた証拠に、元治年間に長州征伐が行われ、津山藩も出陣したが、そのとき町民から寄付を募った。西新町若狭屋久蔵は金子50両を献納、年寄別格という資格をもらっている。一般の町人とすれば高額である。
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 若狭屋の建物は江戸時代と同じ位置にあるが、表は改装され面影はない、うしろ側約三分の一は町内の会館として残している。棟田が勉強していたという土蔵はそのまま、なぜ土蔵を書斎にしたかといえば、本宅では酒や芸者衆の脂粉の香りがただよって、少年棟田はそれをさけたのだろう。文学書をよく読んでいたそうだから騒音をきらったのだろう。西新町というこの町内はもとの新町で城下町でもおくれて出来た。大きくなったので東と西に分けて城下に入れた。東新町は商業的には問屋、また野鍛冶も多いところだったが、西新町には洋学の大家、箕作阮甫の生家がある。町医師をしていた家系、また宿も一軒ではなかった。高瀬舟の通る吉井川べりのそうした商人町であった。

 津山には建設当時の森藩と元禄以後の松平藩があるが、森藩時代は18万6,500石、実質25万石といわれた。それが松平藩になると約90年間5万石となった。この大変化で人口が激減、西新町あたりもうしろの林田といわれる地域は、人家がびっしりだったが、人の移動で田畑になった。この大きな変化を生んだのが、森藩時代の江戸の犬小屋造りからでこの事件が森の改易につながったといわれるほど大きな出費になった。棟田作品の時代ものはこれだけといわれる「犬小屋は残った」の内容は、この事件の津山藩事情を描いている。悲劇の森藩は森蘭丸にはじまるが、森家をぜひとりあげたいと、棟田は常に言っていたが、犬小屋一つに終わった。壮大な構想をねり、その第一弾がこれであったとみる。師の長谷川伸は時代もの一辺倒を貫いた。棟田はその点で反対の作家になったが、共に作品に生きるものは庶民性である。
やはり師の道を歩んで来た。

 もう一つ、西新町に中華理髪店があった。王万林という中国人がここで開業していた。人気がよくて付近の人に愛され客も多かった。戦争中もそのまま営業を続け、棟田も召集で出征のとき、ここで頭を刈ってもらった。戦前大阪に出て成功したそうだ。町の人に愛された王万林のことを書いて、新国劇がとりあげ、舞台で人気を博した「中華理髪店」は戦時中のこと、肩身狭く暮らしているだろうと、地元への思いをはせた作品で、それなりに日本人に訴えるものがあった。

(文:津山市文化協会発行『津山の人物(Ⅰ)』より)