【津山人】大谷是空(藤治郎)

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 大谷是空は(本名藤次郎)は、美作国西北條郡西苫田村大字山北の地に慶応3年(1867)10月27日、父為吉の次男として生まれた。和田克司著『正岡子規と大谷是空』によれば、子規が「筆まかせ」において、是空を親友と呼んだように、子規の青春時、是空はもっとも親しい子規の友人であり、心許した仲だったそうだ。
 明治17年(1884)に上京、進文学社に学び、次いで東京大学予備門に入学、在学中に第一高等中学校となり、5年経ったころ発病、22年に静養のため郷里に帰った。当時津山には小学校以上の公立学校はなかった。たまたま東京の青年協和会の手で学校を建てる募金のために有志が帰って来た。東京に美作人のための学校をつくろうとしたらしい。これに対して大谷是空は、東京のことは東京でせよ、われわれは郷里のためにやると決意、地元の有志やら、周辺の郡長によびかけ、普通学校が建った。これが動機となって、津山中学校が建つことになり、大谷は初期の教師となって、津中の教壇に立った。しかし明治30年には大阪に出て生命保険会社に就職、さらに東京汽船会社へ、それが合併して日清汽船となり、事務的才能を発揮した。 

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↑ 津山郷土博物館平成8年度春季特別展        ↑ 『作州からみた明治百年』より
『正岡子規と大谷是空』

  ところが彼は本来、文学青年で、小説、詩、俳句など新聞に投稿、文筆に精通したが、すぐれた事業家としても頭角をあらわしていたのである。        
 大谷是空が津山中学校の教師時代、校長は菊地謙二郎で話題の教師には川村良治郎、平井直澄、菅沼定光、柴田節夫らのなかに大谷もいた。実は文学青年だと書いたが、田岡嶺雲も一緒であったから、田岡が病中のとき70余名の友人が、なぐさめの文集をつくったなかに津山人が一人いた、是空である。

 また、夏目漱石や正岡子規などの手紙に津山の文字が見えるのは是空との関係である。是空は文人としても生きた。現代的にいうなら文学者是空として知られるはずであった。是空はやがて中外商業新聞の重役になって、寄稿家として楽しい人生も生き、多くの著書も残している。彼が養父になったことが碧雲居を育てもした。

 
是空は昭和14年、71歳で死去したが、碧雲居の句に「是空死す」として
 人のいのち見て春蘭花咲けり

 美術学校を出て画家たらず、画才なきにあらざるも大作を好まず小品を得意とし、新聞社に入りて論文家たらず、文才なきにあらざるも長編を好まず小品に長ず、この小品的画才と文才とは遂に碧雲居をして俳句に走らしむ。俳句は我邦の詩形中最も小なれども、いわゆる有声の画として見るとき他のいずれの詩よりも大なり...と碧雲居句集の「跋」に大谷是空(藤治郎)が書いている。
(文:津山市文化協会発行『津山の人物(Ⅱ)』より一部抜粋)