津山・森藩・松平藩の代表的な豪商「錦屋」

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2018年3月30日の森本家とつやま自然のふしぎ館です。

 森本家は、錦屋を屋号とし、伏見町で呉服商を営む津山藩の御用商人だったそうです。先祖・森本儀太夫(永禄6年<1563>生まれ)は加藤清正の重臣で熊本城下に居住しており、その弟一族が津山藩主森忠政に召されてこの地に土着し商人となり、藩主森家・松平家に仕え、町年寄、札元などを勤め藩政の御用にあたってきた家で、9代目の藤吉さんは津山銀行頭取(明治12~42年)や町会議員を務め、町の発展に尽力されました。(呉服商の店は明治42年まで続けられていたそうです。)

 藤吉さんの子・慶三さんは、明治33年、両親に無断で内村鑑三に入門しようとするが、最初は断られ、のち、両親の許可を得た上で入門を許され、東京帝国大学農科大学に学び、内村鑑三が日曜日に自宅で開く聖書講義に毎週欠かさず出席し、その教えに共鳴し、明治34年にはキリスト教に入信。明治44、45年には内村鑑三を津山に招き、聖書講演会を開くなどキリスト教伝道に努めたそうです。

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2018年の津山城(鶴山公園)のさくら

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左手が森本家とつやま自然のふしぎ館・右手が歴史民俗館です。

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つやま自然のふしぎ館全景

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錦屋(森本家)は森・松平両藩の町年寄役、札元(松平藩)、御用商人として傍ら明治末期まで約300年間、金融業、呉服商、時計店などを営んでいました。

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森本家の外観

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「津山商人の歴史と文化」-津山・森藩・松平藩の代表的な豪商「錦屋」(森本家)にまつわる興味深い商家の歴史や文化について語る-

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軒先に蜂の巣があります。            鬼瓦にキリスト教の十字架が入っています。

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鬼瓦にキリスト教の十字架が入っています。


津山商人(錦屋)の歴史と文化
はじめに
 城下町津山には森、松平藩を通じて著名な商家が多く存在していた。それらの商家のうち錦屋について、幕末から明治中期にかけての商いをエピソードを交えて紹介したい。


1.錦屋(森本家の屋号)の成立と発展
 森本家は肥後熊本藩 加藤清正公の家臣「森本一久(義太夫)」がルーツ(家祖)である。義太夫の弟二人(宗兵衛、宗右衛門)は1590年(大正18年)に武士を廃業し町人になり、播磨千種を経て美作倉敷(現美作市)に入り「千種屋」の屋号で呉服店を開業した。
 その後森忠政公からの要請で、院庄の蔵合氏、木知ヶ原(現 美咲町吉ヶ原)の神﨑氏(小豆屋)と共に宗右衛門が片原町(現伏見町)に移住し「錦屋」の屋号で本格的に呉服商売を始めた。錦屋は森、松平藩を通じ発展を遂げ、本業の呉服屋のみならず、両替屋、質屋、賃貸(レンタル)業、不動産業、時計商等事業を拡大していった。
 江戸末期の錦屋は、応接間、居間、屋敷神、帳場、土間、中庭、倉庫、茶室等30数個の部屋があり、290坪(960㎡)の広さがあった。これらの部屋で商談や接待が行われていた。


2.津山藩との関わり 
 錦屋歴代当主は商才を発揮し、津山屈指の豪商に成長、藩からも厚い信頼を受け、森藩では「町年寄」、松平藩では八代源二郎が「札元」に任命された。松平藩には多額の金品を献納、融資に対する返礼として書画骨董の銘品を始め、藩の所有する貴重な資料や古文書など多くの品々を拝領した。幕末には7700両の金子を献納、新田開発、道路建設等の事業にも尽力、藩の御用商人として活躍した。更に、山下(当時は家老の居住地)へ土地を拝領するが、実際に居住したのは大政奉還後、錦屋を廃業した後であった。
 また、農民への寛大な融資を施しを惜しまなかった為に、幕末、維新期に県北に勃発した百姓一揆や騒擾のも被害を受けることは無かった。
                        

3.商家の必需品
当時の商家としての必需品は以下の3点(いわゆる三種の神器)ではないだろうか。
・暖簾
「のれんを分ける」「のれんに傷がつく」等のことわざがあるように、当時暖簾は商家のシンボルであった。火災等で万一暖簾が消失しても翌日から商いができるように別の場所に同じ暖簾を保管していた。現在も錦屋歴代の暖簾が保管されている。
・算盤
当時の代表的な算盤は中国から輸入されたもので、「7珠式」(上2珠、下5珠)であった。錦屋もこの7珠式算盤を使用していた。
この7珠式は尺貫法に対応できるもので、中国では広く普及したがその後日本では、6珠(上1、下5)現在では5珠(上1、下4)に改良されている。
・大福帳(当座帳)
いわゆる金銭賃借簿で出入金の記録が詳細に記載されている帳簿である。当時は掛売が一般的であり、大福帳は売掛帳簿として重要な書類であった。
返済不能の顧客には斜線で棒を引き、貸金を不問にした。(借金棒引きの語源)


4.錦屋の家訓と信仰
家と商売を守るために商家には家訓があり、家族の使用人もそれに従った。七代藤吉(定富)の家訓の一部を紹介すると、 
 ・神を敬うこと。信心行き届かぬ時は親が罪を受けるべし。
 ・毎朝起きたら神々を礼拝し、次に親に礼儀をつくすこと。
 ・親より言われることには不審もあろう、その時は良く尋ねること等。
家訓でも分かるように代々信仰心が篤く、古くから氏神の徳守神社を深く敬愛していた。
また屋敷の一角には「信栄大明神」と称する屋敷神があり、常時祭礼を行っていたとの記録がある。幕末に黒住教が津山で布教されると、八代当主源次郎は教えに傾倒し教導職に就き、自宅に黒住教の社務所を置いた。
九代藤吉(定隆)は愛染寺の檀家総代を務め、以降代々森本家の墓所は愛染寺にある。
十代慶三が宗教家内村鑑三の感化によりキリスト教に改宗したのも、信心深い家庭の影響を受けたものと思われる。


5.津山銀行の開設
 明治初期以降、津山周辺には、土居銀行、妹尾銀行、東洋銀行等多くの個人銀行があったが規模的にも小さかった。九代森本藤吉、浮田卯佐吉が発起し、明治15年に「津山銀行」を資本金5億円で錦屋の隣に開業した。藤吉が初代頭取、卯佐吉が総支配人、苅田善次郎、関当間公らが主要株主となった。当時美作地方の最大の銀行であった。
津山銀行はその後周辺の銀行と合併し、のちに中国銀行津山支店になり初代頭取には藤吉が就任した。


6.裏千家との関係 
 大政奉還後、茶道は武家、豪商等の頼るべき母体を失い、財政的にひっ迫していた。
当時の裏千家も経済的に困窮していた。明治22年錦屋は、誕生寺住職「漆間師」より裏千家12代家元「千玄室師(又妙斎)」を紹介され、錦屋と裏千家の交流が始まった。
藤吉夫妻も玄室師より許状30通を皆伝、また家元への経済的な支援も行った。その見返りに裏千家の茶道具が多く錦屋に流入した。
その後裏千家も立ち直り、錦屋との交流もなくなったが、平成3年、当時の歴史民俗館に展示していた裏千家伝来の茶道具多数が盗難に遭い、未だにその行方は分からない。


7.津山洋学との関わり 
 津山藩からの拝領品の中に津山洋学にまつわる資料も数多くあった。幕末の開国に関連する貴重な文書や文物、津山藩最後の藩医「吉村杏斎」の関する資料等は、。平成18年に洋学資料館が「森本家が守り伝えた津山洋学の至宝展」を開催、当時の洋学に関する資料を広めて頂き、その大部分を洋学資料館に寄贈させて頂いた。
蘭学者「水田昌二郎」が津山で主催した「蘭学祭」には十代慶三が協力した。


8.明治の伏見町 光と影
 明治の伏見町は、多くの商家が立ち並び、新鋭の浮田家が津山城の堀の一部を埋め立て製紙工場を創業、また錦屋と共同で銀行を開設するなど地域産業の発展に大きく貢献し、ある意味で文明開化の中心地であった。一方伏見町には森藩時代からの監獄が昭和に入っても拘置所として残っており、材木町の「花街」が伏見町の一角にまで伸びて、暗いイメージもあった。一時は100人を超す娼妓で賑わったという。伏見町の本琳寺境内には遊女の供養碑が今でも残っている。


9.森本右近太夫の墨書
 若干横道にそれるが、森本義太夫の次男「森本右近太夫一房」は、肥前松浦藩に仕官していたが、1632年(寛永9年)、御朱印船でカンボジアの日本人町に渡り、さらに200㎞奥地にある「アンコールワット」に参拝した。父義太夫の菩提を弔い、母の長寿の祈念をするため仏像4体を奉納、伽羅の壁にその旨を墨書した記録がある。
(当時の日本人はインド(天竺)の祇園精舎をアンコールワットと間違えていたらしい。)
伽羅の墨書はカンボジアの内戦の祈り、ペンキで塗りつぶされていたが近年その一部が露出し、日本人の落書きの元祖とも言われている。

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(資料提供:森本家)