母の日、ファンと花束に囲まれて!
2025年5月11日の母の日イナバ化粧品店内では、稲葉浩志さんから贈られてきた花束は勿論のこと、全国のファンの方々から贈られてきた花束で埋め尽くされていました。上記の写真は12日の様子を送ってきてくださいました。11日のイナバ化粧品店は花束とファンの方で賑やかでお話しする時間がなくて失礼してきましたが、ママはいつもの様に溌溂とお元気でした。
2025年5月11日の母の日イナバ化粧品店内では、稲葉浩志さんから贈られてきた花束は勿論のこと、全国のファンの方々から贈られてきた花束で埋め尽くされていました。上記の写真は12日の様子を送ってきてくださいました。11日のイナバ化粧品店は花束とファンの方で賑やかでお話しする時間がなくて失礼してきましたが、ママはいつもの様に溌溂とお元気でした。
友人から誘いを受け、2025年5月4日津山市神戸にある、後醍醐天皇復活の宮 作楽神社で「菖蒲(あやめ)を愛(め)でる会」があり出かけてきました。
菖蒲の咲くころ何度か来させていただいていますが、今年の菖蒲は何とも言えない綺麗な色で思わず引き込まれていくようでした。
4日の境内では沢山の方々が来られていて賑やかでした。また、詩吟、琴の演奏、謡曲などがあり、気持ちのいい青空の下で琴の演奏を聴いたり、散策したりしてきました。海外の方の姿も見かけましたよ。
2025年5月3日の神楽尾公園です。さつきはやっぱり神楽尾公園でしょう。
岡山県津山市総社にある神楽尾公園は、津山盆地のほぼ中心に位置する神楽尾山(標高308m)に築かれた中世の山城(神楽尾城跡)への出発地点でもあります。市内を一望する場所にあり、四季折々の植物観察やゴーカートなどが楽しめます。春には藤の花や、桜がきれいに咲くスポットです。
ゴールデンウィークの最中、青空の下で「旨さ史上最強 第8回 牛魔王選手権」が津山城(鶴山公園)つるまる広場で、2025年5月3日(土) 〜 5日(月) まで執り行われました。「津山地域は養生喰いの本場として、牛肉を食したといわれる牛肉の聖地での開催です。この選手権は、味自慢のお店が多数参戦するため、様々なおいしい牛肉料理が食べられるチャンスです。」とのキャッチフレーズの通り、とても美味しいお肉が食べら大満足でした。
江戸一目図屏風(岡山県指定重要文化財)文化6年(1809)鍬形蕙斎(紹真)六曲一隻 館蔵
文化6年(1809)、江戸の全景を詳細に描いた景観図で、墨田川東岸の上空から西方の地上を見下ろした鳥観図となっている。
画面中央に江戸城、左に江戸湾、下に墨田川を配置。江戸城の周囲には大名屋敷が並び、外堀の外には入り組んだ街路や蛇行する用水路に沿って、民家や社寺がびっしりと描かれている。また、浅草寺、向島、新吉原など著名な江戸の名所が250ヵ所以上も描き込まれ、さらに、画面上方の遠景には秩父や丹沢の山々がかすむようにあらわされ、その中央には霊峰富士がひときわ大きく描かれている。
当時より、江戸は人口100万を超える世界でも指折りの大都市であった。本図は西洋画の技法を駆使しながら、19世紀初頭の江戸の繁栄を描いた肉筆画として、近世景観図の傑作と評価されている。(2012年3月14日取材時の写真引用)
鍬形蕙斎が生きた江戸
鍬形蕙斎は明和元年(1764)に江戸で生まれました。この頃、江戸では武家文化人・地方出身者・江戸っ子が一丸となって多彩な江戸文化を創出します。鍬形蕙斎が江戸で育った時期には、浮世絵や狂歌が流行し、新興の出版資本蔦屋重三郎や須原屋などが黄表紙・江戸切絵図など多種多様の本を出版しました。
鍬形蕙斎は13歳の頃に浮世絵師北尾重政に入門したと考えられており、15歳の頃にはすでに黄表紙の挿絵を描いています。その後、北尾政美と号して狂歌で有名な大田南畝や蘭学にもくわしい森島中良などとの交流を深めていきました。(文:「江戸一目図屏風実物展示ー鍬形蕙斎と江戸ー」津山藩御抱絵師の鍬形蕙斎より)(2025年4月5日撮影)
2025年04月01日リニューアルOPENした「あば温泉」は、岡山県津山市の数少ない温泉のひとつです。地下1500メートルから汲み上げている温泉(泉質はアルカリ単純温泉)とのことで、早速伺って来ました。
まず、リニューアル後に目を聞いたのが、入浴後には絵本や漫画も楽しめるゆったりとした休憩スペースです。なんと、ハンモックまであり寝てしまいそうです。
あば温泉は、「桧」「岩」と2種類の温泉があり(いずれも露天風呂併設。男女日替わり)、どちらも内風呂・サウナ・露天風呂があります。
・営業時間/午前11時から午後9時まで・休館日/毎週水曜日(祝日の場合は翌日)
【津山市内】大人(中学生以上):550円・小学生:250円・70歳以上:350円
【津山市外】大人(中学生以上):800円・小学生:400円:70歳以上:600円
2025年5月1日のイナママです。4月何度か前を通ったのですが車が満車で駐車できず、とうとう5月になってしまいました。ママさんとご近所さん達と久しぶりに先祖の話や、町内に子どもがいなくなってしまった話など賑やかに話していたのですが、ママさんが「喫茶店にいこう!」と急に言いだし、急遽近くの喫茶店に行って、話の続きをしながら楽しいひと時を過ごし気づくと6時近く、慌ててお店まで帰ってきました。ママさんは、お変わりなくとてもお元気でした。
森家はもともと清和天皇からの流れを汲む氏族といわれ、相模国森郷を領したのち森氏を名乗ったと伝えられています。森家が歴史上に現れるようになるのは16世紀、森可成のころからで、可成はのちに織田信長に仕え美濃国金山を領することになります。
また森家は著名な人物も多く輩出しており、この中でも先の森可成のほか森長可や森長定(蘭丸)などは特に有名な歴史上の人物としてよく知られています。
三日月藩森家にはこのような氏族の後裔(こうえい)として森忠政が開いた津山藩森家(現岡山県津山市)を本家とし、その分流として成立します。慶安二(1649)年、後の三日月藩租である森長俊は二代津山藩主森長継の子として生まれ、延宝四(1676)年には藩主森長武に領内の一万五千石を分け与えられ津山新田藩を開きます。
しかし元禄十(1697)年、本家である津山藩森家が改易となったときに森長俊は播磨三日月の地に移され、ここに三日月藩が始まることになります。
三日月藩の領地は現在の三日月町、佐用町、上月町、南光町、新宮町、山崎町の一部にまたがり、佐用群内では四十の村、新宮では七の村、穴粟郡では十八の村の計六十五村を数え、石高は津山の頃と同じ一万五千石でした。
後の三代俊春、四代俊韶のころには、今の岡山県と兵庫県内に四万石ちかくを預かり五万四千四百三十石を有したこともあったようです。
さて、この長俊の後三日月藩の藩主は二代長記、三代俊春、四代俊韶、五代快温、六代長義、七代長篤、八代長国、九代俊滋と続くことになります。
藩主の説話もいくつか残っており、初代長俊は長身で鼻筋が高く眼光の鋭い人であったといわれ、いまでも菩提寺(ぼだいじ)である高蔵寺(こうぞうじ)にはその面影を伝える木造が残されています。二代長記は氏神の日岡八幡宮(ひおかはちまんぐう)、菩提寺の高蔵寺の増築を行っています。三代俊春は学問を好み、四代俊韶も能書であったと伝えられ、また五代の快温も学問を好み私金でを投じて藩校廣業館(こうぎょうかん)を設立し、学問・武芸に力を入れたとされます。
この後三日月藩は九代の俊滋のときには明治維新(めいじいしん)を迎え、さらに明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)で藩知事(はんちじ)を免ぜられたことをもって三日月藩九代174年の治世は終わりを告げることとなりました。(文:兵庫県佐用郡三日月町発行『森家一万五千石の陣屋 三日月藩乃井野陣屋跡』より転載)(撮影2023年5月18日・20日)(佐用町許可済み)
常道大日堂(加茂郷88ヶ所霊場第73番札所)は、加茂町百々常道(ちのみち)の県道の道路脇の2mほど高い所にあります。本尊は大日如来です。高さ2m幅1m位の祠で、そばにいわれのある桜の木があります。(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)
令和7年(2025)4月21日、院庄にある極楽山 清眼寺の「ぼたん・シャクヤク祭り」(ぼたん百種300株、シャクヤク50株)に行ってきました。お祭りは4月19日から始まっていますが、4月21日に行った時はまだ咲き始めの様子でした。これから先は境内を埋め尽くすような鮮やかなぼたんの花等が見られると思います。また、期間中は様々な催しもあるそうです。(過去の取材から)