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取材記事内をタグ「お多福旅館」で検索した結果,5件の記事が見つかりました。

「旅館 お多福」さんのクリスマスローズ

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2017年3月29日に所用で旅館お多福さんへ行きました。お多福さんのすぐ前には江見写真館があったりして、風情のある通りです。そのお多福さんの玄関前の沢山の鉢には大切に育てられたクリスマスローズの花が一斉に咲いていました。その姿がとても可愛くて撮らせていただきました。クリスマスローズの花の名前は解りませんが、随分沢山の種類を育てていらっしゃいます。その一部をご紹介してみます。

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旅館「お多福」の「作州維新文庫」

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2014年6月1日(作州維新文庫についてはこちらからどうぞ

創業以来、80年を越える旅館「お多福」には、郷土の偉人・先人の遺墨や書簡など、多数の作品を収蔵する「作州維新文庫」があり、貴重な書画を中心として館内に展示保管されています。今回、「郷土の志士展」(作州維新文庫主催)が2014年6月1日・2日にあり行って来ました。岸田吟香の絵画や書・津田真道の和歌などがありましたよ。

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衆楽園で1870年開催された曲水の宴、「衆楽雅藻」が発見されました。

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 衆楽園で1870年開催された曲水の宴、「衆楽雅藻」が発見されました。
巻物は絹布に書いた絹本で、曲水の宴を意味する「流觴曲水」と書いてあり、最後の津山藩主・松平康倫の落款がある。(長さ12.8M、幅0.35M)
康倫の家臣が書いた日記には71年4月12日に巻物が完成したとあるが、その所在は分からなかったそうです。2013年1月、大分県の古書業者から巻物が売りに出されているのを竹内佑宜さんが聞き、是非、津山に残しておかなくてはと入手されたそうです。また、上巻が「乾」、下巻が「坤」の意味らしく「坤」の発見に努めたいとお話し下さいました。(2013年2月25日取材)

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平賀元義の遺墨展が旅館「お多福」でありました。

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平賀元義(ひらがもとよし)(1800~1865)という人
幕末に万葉調の歌人として活躍した国学者で、正岡子規や斉藤茂吉等に影響を与えた人で個性的な書風を持つ歌人としても知られる。
 1800年(寛政12)に岡山藩士平尾長春の子として生まれ、岡山城下富田町で育った。
 1832年(天保3)脱藩し、平賀左衛門大郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などを放浪し、多くの万葉調の歌を作った。奔放純情で奇行が多かった、と伝えられる。
 生涯不遇の人で、学才を認められた矢先、路傍で卒中のため急死した。


平賀元義という人は作州を中心に旅を重ねた人で、弟子にこよなく愛された人である。
◎エピソード
・仏教が大嫌いな人で、仏教信者と袖が触れただけでも禊(みそぎ)を繰り返したという。
・武士の魂を持ちつつ、弟子の家を渡り歩いていた歌人。
(門人の家では塩とチリシを使い放題使ったので門人の奥さんから嫌われていると悟ったら、また次の門人を探して宿にしたが、門人からこよなく愛された人。
・使い古した着物を着ていた。

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旅館「お多福」のお宝(作州維新文庫)紹介

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 創業以来、80年を越えるお多福は、郷土の偉人・先人の遺墨や書簡など、多数の作品を収蔵する「作州維新文庫」があり、貴重な書画を中心として館内に展示保管されている。一例をあげれば、津山藩主松平康哉が描いた山水画。歴代藩主の中でも、特に名君として誉れ高い松平康哉は、宝暦12年藩主となり、学校を起こし藩士の教育を奨励、また武道の振興を講じた。そして能力のある人物の起用を広く進め、若き優秀な人材を発掘、登用することを常に心がけ、藩政改革に挑んでいった。しかし、その理想が結実することは容易ではなく、幾度もの紆余曲折があった。とくに天明年間は全国的に天災が多く、大凶作が続く困難な状況のもと、藩内外に倹約令を出して乗り切った。また江戸にあって康哉は熊本藩主細川重賢に私淑したほか、米沢の上杉鷹山・白河の松平定信らの諸侯と親交を深くし、幕政にも大きく寄与するところがあった。資料提供:旅館「お多福」(2010.5.10)
※作州維新文庫には、広瀬臺山遺墨、飯塚竹斎遺墨、津山藩御用絵師遺墨、作州文人遺墨、津山藩維新志士遺墨、平賀元義及び門人遺墨、江戸期岡山歌人遺墨などが収蔵されている。

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