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福井 縁日に今も賑わう長谷稲荷(ながたにいなり)

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長谷稲荷(ながたにいなり)  2012年2月11日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)
 長谷稲荷は、福井の地域にありながら、福井と一部田熊の地元関係者以外は、あまり所在が知られていないのではないかと思われるが、今でも熱心な信仰のもと、縁日には多数の参詣者があり、賑わいを見せている。
 この稲荷様は、福井の集落から2~3kmかけ離れている津山市の東端部で、勝央工業団地の北側、すなわち、勝央町福吉と境を接する山地の山頂部に位置している。稲荷としては珍しく創建の由来や時期がはっきりし、集落とかけ離れたところに位置している意味もわかる数少ない神社である。要約して言うならば、江戸時代末期、福井村と福吉村との入会地紛争の結果創建された、いわば封建時代における民衆の苦難の歴史を秘めた神社なのである。

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河面 斎田のあった歯朶(しだ)森大明神

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河面 斎田のあったあった歯朶森大明神(2012年1月28日取材)
 植月線河面坂を下り、平地にでる間際の南側山手(喫茶パンの木の裏山)に、ひっそりとした雰囲気の歯朶森大明神(しだもりだいみょうじん)と言われるお宮がある。神社へは、国道から南に入った最初の谷をしばらくいくと、鳥居が見え、境内への上がり口となる。神社らしい森のなかに、小規模ながら鳥居・石段・常夜灯・お宮の本殿とたたずまいをもち、よく手入れされ整えられている。
 伝承によると、平安末期に福井の新宮城に祀られていたお宮が、源平合戦の戦乱に巻き込まれて、落城の後ここに移されたらしい。文化9年(1812年)発刊をみた「東作誌」には、河面村に「歯朶森明神社」の存在が記載されていることからも、昔ながらの神社である。

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田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑)

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田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑) 2012年1月7日取材
 中村周介は宇田川榕庵が津山藩医頃、医学と算聖の関 髙和髙弟青木正蔵より和算を修め田熊に帰り医業を継ぎ、また多数の和算の門人を持った。
 中でも甥嘉芽市は幼少より算用に通じ人々に「天童」といわれ、周介の教えに熱中、寝食を忘れて勉学、15、6歳で田熊流とさえいわれる和算の奥義を窮めることができた。(周介72才)
 文化4年、亀田代官が周介翁を訪ね「堀坂村の井堰が大雨毎に流れ、水の取り入れ口が洪水の進入路となり百姓達は、泣いて訴えます。よい設計はないでしょうか?」と頼まれました。
 周介は堀坂の墜道堀盤工事のことを嘉芽市に説明し、16才の天童少年に全部を頼り切った。周介と嘉芽市の設計施行の暗渠堀盤は独創適確な妙案であった。簡素な測量器、曲尺や夜は提灯利用、駆使し和算のうりょくの全力を絞り切って延長百米の大墜道を鎚とタガワで両側から掘って約1年で貫通させた。一当時は日本初の工法といわれたー

 周介亡き後嘉芽市は、天下に師を求め、江戸に上り幕府天文方御書物奉公、高橋作左衛門に師事し天文能史の奉行高橋作左衛門は、シーボルトの持つ「世界周航記」「ナポレオン戦記」ほしさに、国外出禁の伊能忠敬の蝦夷測量図と交換した。このことが間宮林蔵よりもれ作左衛門景保先生関係者は、極刑に及び門人嘉芽市も幕府の隠密をさけ、死地を脱す。年25歳帰省後は、「田熊算仙」といわれて二百余名の門人を持ち、また里正となり帯刀を許された。明治11年10月10日没す73歳。(文貴)下山陸治

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河面 清瀧寺関わりの広山八幡宮

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河面 清瀧寺関わりの広山八幡宮(1)
 清瀧寺の西側に隣接して、丘陵性の山地があり、その山頂の河面の八幡様がある。地名にちなんで広山八幡宮と言われており、清瀧寺の開基と同時に清瀧寺の鎮守として奉仕建立された伝承のある古い神社である。
 清瀧寺仁王門より100m余下った河面の旧道の麓から、山手へのほぼ真っすぐな急な石段が、神社への参道である。その上がり口に、岡山県のかかげた古い制札がある。風化して文字が読みにくくなっているが、敢えて判読すると、
定 1.車馬便乗 2.鳥獣拿捕 3.竹木伐載
右之條々御定通り 禁之者也 昭和12年7月12日 岡山県
とある。神社のある山の木や竹を伐採してはならない等の禁制の標札であるが、単に聖域を保護するのみならず、神社の造営補修の費用を賄うための大切な意味があった。このような禁制は、歴史的にも次のようにかなりな重みをもって記述されている。
 「清瀧寺修補記によれば  寛文12年(1672年) 宮山地内伐木赦免の事あり その後郡代長沼字右衛門尉禁伐の制礼を建つと云う その文に日く清瀧寺並に八幡宮宮山山林竹木伐採申間敷事云々 寛文13年(1673年)  森家の臣原十兵衛一春  天和3年(1683年) 原十兵衛一益等累代崇敬の為社殿を造営す此れより後 社寺分離宮山竹木一社勝手に造修用に伐採を許される」(「美作国神社資料」による。)2012年1月取材

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萬福寺(高野本郷)と堀内三郎右衛門

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萬福寺(津山市高野本郷)2012.1.14日取材
本部から「92歳の本当に困っている老祖を助けてあげてほしい。」と言われ、33年前にご夫婦で来られたそうです。「このお寺は旧市内から分寺してここに来られたのだと教えてもらいましたが、このお寺の詳細は分かりません。」とおっしゃっておられました。万福寺では、堀内三郎右衛門のお墓があって、小中学生が授業で見学に来られるそうです。墓には「堀内三郎右衛門 君碑 法学博士 平沼 淑郎(よしろう)」と刻んである。今は檀家の人たちと堀内三郎右衛門一族のお墓を大切にお祀りしておられるそうです。(この他、堀内三郎右衛門の妻光井傳(でん)が元禄13年に奉納した燈籠が高倉神社にあります。また、農民の窮状を救おうと、命をかけて強訴におよんだ指導者8人の霊もいわゆる千人塚で供養回向されている。田中角栄氏が書いた義民の碑も高倉にある。)


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河面 奉納相撲に活躍した頭取・行司の碑

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河面 奉納相撲に活躍した頭取・行司の碑(2012.1.22)
 今日では、相撲と言えば、プロの相撲取りが行う国技館の大相撲を連想しがちであるが、昔は、各地方で素人相撲が盛んであった。幕末から明治~大正・昭和の初年まで、社寺の祭礼などにその境内で行う奉納相撲、社寺や仏像の建立修繕のために金品を募って興業する勧進相撲など、信仰と深いかかわりをもって行われた。この近辺では、すでに文化年代(19世紀初め)に植月の宮相撲は有名であった。祭の当日など相撲の興業があれば、遠近から力士や見物客が境内いっぱいに大勢押しかけた。見物客は、重箱、酒などを持ち込んで盛んに声援したもので、相撲取りは花形的存在であった。
河面のお祭り当日、今でも行われているお宮でも子ども奉納相撲は、こうした伝統を踏まえた祭礼行事といえる。

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河面 上原丘陵に存続の先祖社

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河面 上原丘陵に存続の先祖社(光井家の先祖社境内)2012.1.22
河面地域で、ある老婆と話をしていると、次の旨の話を聞くことができた。
「私ら光井姓を名乗る一族は、上原の先祖の社をお祀りしている。
 年に一度、秋には先祖祭りとして、親類縁者の光井株が皆集まって近長の大夫(神主)に拝んでもらった後、その場所でにぎやかに会食する。神様として"武内」さん"を祀っている。」後日、近くの老人に案内してもらった。上原集落に近い丘陵に、屋敷森か古い塚(古墳)を思わせるこんもりとした林があって、鳥居や境内をもつ先祖社が祀られていることが分かった。
 古代から氏神信仰は、一族で先祖を祀る社をもち、「予祝祭」(よわいまつり)として春、「収穫祭」としての秋にお祭りを行い、一族みんなでの共同飲食をする習わしがあった。(岡山県史古代2)これは、それを今にしてうかがえる氏神信仰の珍しい社である。
 これと似た事例として、作州では、菅家一族の信仰が知られている。
 作州の菅家とは、菅原道真につながる子孫が平安末期に配流されてより、菅原満佐を祖とする武士団を形成し、菅家七流と言われる大きな勢力をもっていた。
奈義の有本を筆頭に、勝央の植月、鷹取、美作の福光、英田の江見、原田、広土など、この後に奈義・勝北の豊田、久米の垪和、作東の安東、英田の渋谷等々も同族となり南北朝から戦国時代にかけて武士団とし名を成した。
 この菅家一族は、先祖神として相撲の神で名高い野見宿禰を祀っていた。
光井家については、「森家以来の大農にして、旧家たり。相伝う、光井氏は当国神楽尾城主田中修理大夫某の子、光井大夫を以って始祖とす。その子孫毛利家に仕ふ。毛利背下の周防国住人光井右京亮の裔(えい)という。」(東作誌)とある。先祖は周防地方(山口県)の同姓の多い光の出自とのことである。市内にある神楽尾城や医王山城は、毛利配下の城であり、光井家は先祖が毛利家としてかかわるだけに、光井一族の信仰が注目される。

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広野小学校「松本譲先生頌徳碑」

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(2012年1月9日取材)(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)
広野小 松本譲先生頌徳碑
 広野小学校の校門を入ると、二つの大きな石碑が目につく。大きい方の石碑は、高さ4.2mもある堂々たるものであり、「松本譲先生頌徳碑」とある。広野小学校初代校長松本譲先生をたたえての顕彰碑であり、昭和11年(1936年)に建立されている。当初は上の山ぎわにあったが、新校舎建築によるグラウンド拡張の際、現在地に移された。
 広野小学校は、学制発布後、作州では初期の創立期に相当する明治7年(1874年)に、明知小学校として開校した。当初、場所は、河面の清瀧寺を借りての学校であったが、明治14年には現在の位置に移転し、やがて明知小学校から広野小学校へと校名変更したのは、明治36年(1903年)でzった。今では考えられないことであるが、この間、ずっとこの松本校長先生によって導かれたのであった。なにしろ、松本先生は、明治38年に後進に道を譲るまで、実に30年間も広野小学校一校の校長職であり続けたのである。

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広野小 井上周平先生の頌徳碑

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広野小 井上周平先生の頌徳碑(2012年1月9日・14日)
 広野小学校正門のそばに、松本譲(ゆずる)先生の頌徳碑(しょうとくひ)と並んで井上周平先生の頌徳碑が建てられている。戦後の混乱をようやく抜け出した昭和31年(1956年)に建立された。
 高さ3.6m、近辺では珍しい青石の立派な碑石に、82歳河内貞介謹書とある。裏面の碑文には小原貞次撰文・頼本孟書とある。文字・文は、いずれも広野村の当時ゆかりの教育者であった人達の手によるものである。

 井上周平先生は、慶応2年(1866年)出生、地元福井の出身であり、広野小の前身である明知小学校の卒業生であった。碑文には、大阪府の山本塾にて漢学等を学んだ後、明見・致志(広戸村)の小学校を経て、明治23年(1890年)出身校に出身校に勤務したとある。
 松本譲校長先生退職後の3ヶ年間は、2代目校長役で経営に当たるなど務められ、太正12年(1923年)勇退されるまでの期間、実に33年間、広野小学校の重鎮として多くの学童を育てられた。戦前の広野小学校の校歌も、この井上先生の創作であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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広野小 二宮金次郎像と奉安殿跡

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▲写真提供:広野小学校校長先生
 広野小校門を入っての石碑周辺は、戦前における広野小教育の歴史が、象徴的に凝縮されている感がある。創立期の松本譲先生の碑、尋常小学校時代の井上周平先生の碑、御大典記念(昭和天皇御即位記念)と刻まれた石柱、修身を代表する人物二宮金次郎の像、そして、社こそないが原型をとどめている奉安殿跡などがうかがえるからである。
 広野小の二宮金次郎像は、戦前の修身教育がさかんであった当時に建立された。台座裏面に、昭和9年7月10日橋北関平作とある。「勤倹」(きんけん)と書かれた立派な台座に比べ、塗りがはげてコンクリ部分が剥(む)き出しになっている、不自然に小さな像は、戦時中供出した銅像の代替品ではないかと想像されるが定かではない。

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