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取材記事内をタグ「山田方谷ゆかりの地」で検索した結果,15件の記事が見つかりました。

臥牛亭(がぎゅうてい)高梁市指定重要文化財

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 桁行2間、梁間1間半の切妻造、桟瓦葺の平屋です。一方の妻側に半間の庇(ひさし)を設けて戸口とし、他の三方は窓を大きくとって明り障子を立てまわす開放的なつくりとなっています。
 臥牛亭は、江戸幕府14代将軍徳川家茂(いえもち)・15代将軍慶喜(よしのぶ)の2代の将軍に信頼され、2度にわたって老中を勤めた、藩主板倉勝静(かつきよ)が農民の苦労をしのぶため、御根小屋(藩庁)の一郭に農園を設け、明農圃と名付け自ら農耕をしたと言われています。さらにその一隅に小亭(12.4㎡)を建て、農耕の神々を祀り五穀の豊穣を祈りました。
 明治6年(1873)に御根小屋の全建物と共に撤去されましたが、山田方谷はこれを惜しみ、対岸の蓮華寺境内へ、その後八重籬(やえがき)神社に移築され、臥牛亭あるいは明農亭として現在に至っています。平成22年に保存修理を実施しました。
昭和33年2月24日指定 高梁市教育委員会(文:現地案内板より)

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山田方谷記念館(高梁市)

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開館にあたって
 高梁市では、地域の将来展望を見据えた取組の一環として策定した「高梁市まち・ひと・しごと総合戦略」(平成28年1月)の中で、「心豊かな人材の育成」を目指すこととし、「郷土の偉人山田方谷の顕彰と啓発」を、その施策の一つに位置づけています。
 具体的には、幕末期に財政破綻した備中松山藩を立て直した「山田方谷」の改革理念やその手法、そして多くの人々に感銘を与えた「思想」について、市を挙げて学ぶとともに、「山田方谷」の残した偉業を全国に発信し、「学びのまち」高梁を形成することとしています。
 本館は、その目的達成に向けて、「山田方谷」の偉大な事績について、「儒学者への道」「備中松山藩の藩政改革」「教育への情熱」の三つのテーマを設定して、各種の歴史資料や解説パネルにより、わかりやすく展示・紹介しています。
 また、市内はもとより県内各地の「方谷ゆかりの地」や、方谷に関する書籍・映像を紹介し、「山田方谷」に関する情報を発信する拠点施設として整備しました。(山田方谷記念館)

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有終館跡(The ruins of Yushukan)(高梁市)

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 有終館は備中松山藩が藩士の子弟に文武を教えるためにつくった藩校です。
 板倉勝澄(いたくらかつずみ)が藩主になって延享3(1746)年に本丁(御殿坂)に学問所をつくったのがはじまりです。
 寛政10(1791)年ごろ有終館と命名され、藩校として確立されました。天保2(1831)年の火災により現在地(中之町)に移り、山田方谷が学頭(校長)になってから充実しました。嘉永2(1849)年、藩主となった板倉勝静(いたくらかつきよ)は藩士全員に有終館での学習を義務づけ、最盛期を迎えました。
 山田方谷が植えたとされるクロマツが当時のおもかげを残しています。(文:現地案内板より)(2021年2月6日撮影)

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方谷山田先生遺蹟碑(方谷園)(新見市)

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新見市指定史跡 方谷園 指定:昭和51年4月21日
 偉大な学者・政治家として、備中松山藩に仕え、藩主が幕閣の老中に登用されると江戸に随行し、徳川幕府の終末期の諸政の難事に当たり事実上の施策を誤らなかった山田方谷(1805~1877)が、明治3年かつての水谷新右衛門尉勝能の小阪部陣屋に私塾(小阪部塾)を開いた場所です。
 園内にある「方谷山田先生遺蹟碑」は、勝安房(勝海舟)による題字、三島中洲の撰文、筆は金井之恭によるもので、石碑を彫ったのは倉敷の藤田市太郎です。石碑は明治42年小阪部塾で方谷が息をひきとった時、枕のあった地点に建てられたもので、大正12年、方谷園として開園式が行われました。(犬養毅氏が開園式に来園し揮毫した。)新見市教育委員会(文:現地看板より転載)(2021年2月6日撮影)

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財政破綻した備中松山藩を立て直した「山田方谷」と「津山」

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 津山城の新しいシンボルとして親しまれている備中櫓にゆかりがあり、鳥取城主であった池田備中守長幸は、元和3年(1617)に備中松山城に移り6万5千石を領地としました。
 また、これ以前の慶長年間には、小堀家が備中松山の領主として入っており、二代目小堀遠州は備中松山城の修理や城下町の建設を行いました。津山市の衆楽園が作庭されたとされる時期は遠州没後なのですが、一説には、衆楽園は遠州流の庭園であるとされています。
 このように、なにかと津山とゆかりのある備中松山藩ですが、その備中松山藩の儒学者として、あるいは藩政改革の指導者として著名な山田方谷も、津山とゆかりのある人物でした。その一つに西洋流砲術の修行があります。山田方谷の年譜から見てみましょう。
 方谷は儒学者でしたが、幕末の混乱した情勢の中で軍制改革と西洋式砲術の必要性を早くから感じていました。ところが現実には諸藩の軍制は古式なものばかりでした。

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