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取材記事内をタグ「庄屋巡り」で検索した結果,10件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋「青井家」

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青井家 青井平内 勝南郡岡村 出石藩
大庄屋まで
 青井家の家伝によれば、赤松円心に仕え、今井姓を名乗っていたが、母方の青山氏の姓とあわせ青井に改姓したという。のち、宇喜田直家に従い、天正5年(1577)岡村に移住したという。岡村など8か村が出石藩領になった延享4年(1747)、青井平内は明見村古田氏とともに大庄屋に任命された。平内の父は祠に祀られている道林禅定門という。
大庄屋として
 青井平内の子軍太は、寛政10年(1798)、岡村絵地図を作成している。出石藩は、岡、為本、明見、入田、金井、中原、百々、周佐8か村を支配し、青井氏、古田氏が管轄した。

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美作の大庄屋「中島家」(高野本郷)

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中島家 中島九郎兵衛 東南条郡高野本郷村 森藩
大庄屋まで
 中島氏の記録は、鎌倉時代末に中島隆家が高野郷の地頭職であったことに始まる。康永3年(1344)に出された足利直義の安堵状から中島隆家が元徳2年(1330)息子幸家に高野郷の地頭職を譲ったことがわかる。その後、信長の中国攻めに従い、天正6年には羽柴秀吉の配下となり、高野・広野・林田・田中・新野などで1150貫文の知行を安堵された。秀吉の三木城攻めに従軍している。高野城に居城したという。九郎兵衛が森藩の大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 九郎兵衛のあと六郎兵衛・五郎兵衛が大庄屋を勤めたが、詳細は不明である。享保年間本家は絶家した。一宮中島家はここから分家した。

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美作の大庄屋巡り「多胡家」

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多胡家 多胡勘右衛門 東北条郡綾部村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 多胡氏は、尼子氏の家臣として出雲国に居住していた。尼子氏滅亡後は宇喜多氏に仕え、医王山合戦では宇喜多氏の武将として戦っている。秀吉の朝鮮出兵に参加したといい、宇喜多氏滅亡後、綾部村に帰農した。吉兵衛が森藩の大庄屋に任命され、以後大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 大庄屋を勤めた多胡氏は、屋号を米山という。経済的に行き詰まり、安永5年(1776)大庄屋職を取り上げられ、その後再び大庄屋に任命された。栄二郎は第1次長州戦争に従軍した。(雲路日記)

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美作の庄屋めぐり「田口家」(下横野)

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 美作の田口氏=云い伝えによれば蘇我蝙蝠臣の末、田口朝臣房富二十一世の孫田口重如當國苫田郡を領して田野村に瑞雲山を建立す。その子光益、大和國髙市郡を領し、その子左衛門尉光政、小吉野庄を領してて北髙田に城を築く。また、田野邑に田口山引乘寺(正明寺)を建立す。建武以来山名時氏に属して作州を平定し應永二年三月七日卒したり。なお、山名坊菴入道忠政の女(守護代鶴山城に居る)、虎御前は田口薩摩守光政の室なりと伝わる。
 光政の一子紀重藤は、天正十七年に備中松山城を攻めて庄蔵人を討伐せし功により、勝南郡南分吉留村を領し、光政の二男忠光は父の跡を継ぎ北髙田に居城す。忠光五世の孫田口彦兵衛光正に至り、大内義興を助け、その子志右衛門尉重光は尼子晴久に属し、天文年中各地に転戦したれど、のち毛利氏に随いて宇喜多勢と戦いたり。その後大蔵甚兵衛尚治と謀りて志戸部の出城を潰滅させたれど、その子藤左衛門益重に至り、天正七年神楽尾落城して宇喜多氏に降りたりという。このほか「東作志」に「勝南郡公文庄重藤邑庄屋田口庄七」記載さる。(文:『田口一族』より)

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美作の大庄屋巡り「中西家」

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 中西家 中西孫右衛門 東北条郡小中原村 森藩~松平藩 関宿藩
大庄屋まで
 中西氏は、戦国末期、津山市勝北町西中にあった中西城の城主であった。中西玄蕃頭は尼子氏に従っていたが、のちに矢筈城の草刈氏に従った。草刈氏と姻戚関係を持ち、重臣として活躍し、草刈重継が毛利氏に従い安芸へ退去したとき、加茂郷に帰農したという。孫右衛門が森藩により大庄屋に任命された。

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美作の庄屋巡り「多胡源右衛門」

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 天正7年(1579年)尼子氏が亡んで、尼子氏の旧臣であった東北條郡綾部村(津山市)多胡源三郎基辰(妻は田口氏)は、父四郎右衛門基信(いづれも多胡氏略系参照)と共に宇喜多直家に属した。
 多胡基辰は毛利氏の属城の東北條郡岩尾山城(津山市吉見、祝山、医王山ともいう、既述)を常にうかがっていた。
 毛利方の城將の塩屋佐助は父の豊後守、弟杢助と共に城を守っていたが、多胡基辰に不意を襲われ戦死、落城した。

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美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」

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福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。

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美作の大庄屋巡り「井上家」

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井上家 井上勘三郎 勝北郡福井村 土浦藩
 家伝によれば、源頼朝に仕えた井上十郎左衛門義吉の後裔井上蔵人正清が播磨国乃井野から移住して岩黒城を築いた。一族は後藤勝基に仕え、天正7年(1579)三星城合戦で戦死した者もいた。正清の子孫が、福井村帰農したという。延享4年(1747)、土浦藩は吉野郡、勝北郡の1万9千石余を領し、天明2年(1782)大庄屋として近長村甲田猪吉、福井村井上勘三郎を任命した。
 大庄屋としての記録はなく不明である。福井村正伝寺、八幡神社の延享元年の棟札に、庄屋井上五郎兵衛の名がある。
 福井村は、広戸川が形成した低地と、低丘陵の村である。森藩改易後、幕府領となり、延享4年(1747)常陸土浦領となった。

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会所 山田家(一方)

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 山田家は通称を会所(かいしょ)と呼ばれているそうです。お殿様がお城を出て村人の意見を聞きに庄屋の植月家に来られた時に、村人はここで衣服を整えて向かいの庄屋の家に出向いていたそうです。山田家によれば、山田盛勝が福島正則に仕えていたが福島没収後、一方村に住居し百姓となる。後、山田紋次郎が森公より町年貢取り立て役を仰せつかっている。その末裔、山田虎吉は佐良山村会議員をつとめ、明治22年には嵯峨井堰組合より頌徳状を受けている。(2019年8月18日・24日撮影)
※会所(かいしょ)
集会や事務の行われる場所。平安時代以後、貴人の邸の客殿をこう呼んだが、江戸時代には、幕府・諸藩の行政、財政上の役所、町役人、村役人の事務所、商取引、金融関係の事務所に、この名がつけられた。

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大岡家屋敷跡・墓所(池ヶ原)

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大岡熊次郎  1842年5月20日~1920年6月1日(天保13年~大正9年)
 地方政治家、篤農家、郷土史家、勝南郡(現津山市)池ケ原村に生まれる。
 寛政の駕籠訴訟を行った岡伊八郎の孫。明治元年(1968年)徳川親藩のため窮地にたたされた津山藩は、津山城包囲軍の交渉に、岡熊次郎を外事部の肩書で派遣して、津山城は無事開城することになりました。明治21年(1888年)大岡と改姓。
 明治6年(1874年)血税一揆による犯罪者の発生防ぐ。明治7年 北条県会議員。
 明治9年 第八番会議所戸長。明治11年~12年 勝南郡書記として、窮民救済に尽力。
 明治15年 自由民権運動に参加。明治13年~25年連続3期、勝南郡選出の県会議員を務めた。また、養蚕事業や畜産事業や高取小学校や勝間田農林高校(現・勝間田高校)のも貢献。享年79才:大正9年(1920年)6月高取村村葬。(文:『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)

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