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田中孝夫が残した作品たち

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 田中孝夫氏は、大正10年3月津山中学を卒業後、東京美術学校(現東京藝術大学)の西洋画科を卒業後、昭和3年4月兵庫県立丹波篠山高等女学校勤務、その後、岡山県立津山峰南高等学校(現津山工業高校)の第6代校長になり、昭和25年3月5日退職。しばらくして昭和31年作陽短大、昭和32年から美作短大の教授になった田中孝夫氏ですが、ここでは一部ですが氏が残した作品たちをご紹介してみます。
 上記の絵は、丹波篠山高等女学校時代に制作したバレーボールをする少女達の絵「さわやかな丘」が文展に初入選。迫力のある絵で最優秀作品候補になった絵です。

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日露戦争日本海海戦の副官・田中治平

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 田中治平 明治3年12月15日~大正2年4月29日(1871~1913)
 岡山県英田郡粟井村大字鷺巣(現美作市鷺巣)生まれ。軍人をこころざして明治26年(1893)に海軍少尉候補生となり。日清・日露戦争に従軍。東郷平八郎で有名な日露戦争・日本海海戦では、第2艦隊司令部・旗艦出雲の副官だった。大正元年(1912)、日本が外国に発注した最後の大型艦船である巡洋戦艦金剛を英国に引き取りに赴き、その地で病死した。
海軍兵学校出身、第20期、明治26年12月19日卒

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