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JR姫新線 美作江見駅 駅舎

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昭和9(1934)年
 姫新線は、東中国地域を東西に貫いて、新見駅と姫路駅を結ぶ158.1営業キロの鉄道です。当初は、津山駅-姫路駅間を姫津線、津山駅より西を作備線と呼んでいましたが、昭和11(1936)年に姫津線が全通した際、合わせて姫新線とされました。
 美作江見駅は、昭和9年に東津山駅-美作江見駅が開業した際に設置され、昭和61年、旧作東町に譲渡されました。一部に増築や改変されている箇所もありますが、全体構造はほぼ旧状を留めています。
 なお、姫新線で一つ東の美作土居駅は、昭和11年に設置されましたが、これもほぼ建築当初の状況を保っています。(文:『あなたの街の近代化遺産ガイドブック』より)

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金刀比羅宮(西吉田)

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由緒・沿革 
 吉田神社の前身として、西吉田には2つの神社がありましたが、年代は不明とのことです。昔、出雲大社から御分霊を迎えて、西吉田地区内の南と北に祀りました。1社が現在の吉田神社の地、もう1社が現在金刀比羅宮のある地です。当初は、大国主神社と言っていましたが、その後、両国主大明神と改称しました。戦国時代、山名氏と戦い、敗れて西吉田に住み着いた難波氏がこの神社の社務に従事したとのことです。又、江戸時代、天明7年(1787年)西吉田が、千葉県の下総佐倉の城主堀田正順の領地になった時、現在の吉田神社の南下に陣屋を設け、この神社を鎮護の神社として、毎年3俵の寄進をしたとのことです。
 その後明治4年(1871年)2月に、北の国主大明神を南の現在地に合祀して、社名を吉田神社と改称しました。又、明治5年に北の跡地に金刀比羅宮を祀って現在に至っていますし、明治6年には村主となって、主祭神は大己貴神(大国主大神)です。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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JR 津山線 建部駅 駅舎(登録有形文化財)

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 JR津山線建部駅駅舎 明治33(1900)年 (登録有形文化財) 
 中国鉄道(現在のJR津山線)岡山ー津山間が開通したのは明治31年で、県北と県南を結ぶ鉄道としてこれまで重要な役割を果たしてきました。この駅舎は、岡山ー津山間のほぼ真ん中に位置しており、開通の2年後に地元からの要望により建設されました。現在も建設当初の姿をよく残しており、津山線の駅舎として貴重なものです。
 屋根はセメント瓦で葺かれ、壁は下部が板壁、上部は白漆喰塗り、木枠の窓がはめられ、内部も小荷物扱口や窓口カウンターなど古い状態をよく留めています。映画「カンゾー先生」(1998年公開)の撮影にも使用されました。駅舎ホーム側の柱上部に、建設年代を記した小さな標識(建物財産標)が貼り付けてありますので、探してみてください。(文:岡山県文化財保護協会 あなたの街の近代化遺産ガイドブックより抜粋)(2018年3月24日撮影)

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2018年4月7日の津山城(鶴山公園)のさくら

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 2018年4月7日の津山城(鶴山公園)の様子です。2日前からの雨と風でさくらの花は散っていましたが、沢山の年配者が本丸まで上がって来られていました。その中で一生懸命さくらを撮られていた姿に美しさを感じました。その人その人の考え方で美しさは変わるでしょうが、見る目を変えたら葉桜もまた美しいものだと思えました。

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2018 楽ART倶楽部展「RAKU展」

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 2018年3月29日~3月31日まで津山市立文化展示ホールアルネ4階で 2018 楽ART倶楽部展「RAKU展」が開かれました。美術家の山形楽さんと主宰する絵画教室の36人の生徒さんの作品73点で、パステル画・水墨画・水彩画・鉛筆画・油彩画などの作品が展示されていました。今年のテーマは「心象」だそうです。また、楽さんお手製の竹や木を使ったオブジェも楽しんで来ました。

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お釈迦様の生誕を祝う「花まつり」が衆楽園でありました。

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 2018年4月5日(木)衆楽園内迎賓館で行われた「花まつり」は、4月8日のお釈迦様の誕生日を祝う仏教行事です。日本では明治以降「花まつり」とも呼ばれ、各地域のお寺でお祭りとして根付いていきました。津山市仏教会・同檀信徒協議会では、沢山の子ども達に参加してほしいと春休み期間中の4月5日に執り行いました。当日は、午前10時から、法要・法話、午前11時から園内行道、午前11時30分から、バルーンアート等のアトラクションもあり子ども達が健やかに育つようにと親子で参加されていました。最後に子ども達にはにお菓子が配られたそうです。

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明治150年記念「洋学資料館所蔵資料から見た文明開化と美作の医学」

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描かれた文明開化
 明治になると、浮世絵師たちは、文明開化という新しい時代の世相を描きました。これらは「開化絵」と呼ばれ、西洋風の絵画表現が取り入れられ、目新しいものや風景や生活などが好んで題材に選ばれました。
 江戸時代には政治批判、風紀風俗の乱れ、奢侈という3点が検閲により取り締まられ、幕府に対する批判が少しでも疑われると処罰されました。また、徳川家や同時代の事件・出来事を題材にすることは禁じられていました。しかし、1875(明治8)年に検閲が廃止されると、最近の事件も題材にすることができるようになり、ジャーナリズム的要素が加わることになります。そして、以前なら政治批判とも取られかねなかった、天皇や皇族の姿なども描かれるようになりました。
 やがて、写真や新聞など新しいメディアが台頭し、浮世絵は衰退していきます。「開化絵」はその終焉を飾ったのです。


↑ 上記絵は、(参考)新吉原 尾張屋三階之図 明治時代 三代目歌川国貞
 新吉原にあった尾張屋を歌川国貞(三代目)が描いています。明治時代になると、安価な化学顔料を用いた浮世絵が描かれました。特にアニリン紅を多用したものは「赤絵」と呼ばれ、その毒々しいまでの赤色はこの時期の浮世絵の特徴となっています。この絵にも見られる鮮やかな赤色は当時の人々にとって最も身近に感じられた西洋の息吹として捉えられたといわれています。

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三寶荒神社(新魚町)

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三寶荒神社略誌 
・社号 三寶荒神 ・社鎮守地 津山市新魚町三十二番地 ・祭神 火産霊神奥津比古神奥津比売神
由緒
 三寶荒神社ハ祭神、火産霊神・奥津比古神・奥津比売神(亦名大戸比売神)ニシテ蓋シ竈神又厨房ノ神ナリ 当神社勧請、年代ハ詳カナザルモ伝説及境内ニアル榎ヨリ推定スル二今ヲ去ル三百年以前ニテ森忠政侯入府前戸川宿時代此地方ノ住民ノ祭レル鎮守ノ神ナルベシ(註往時農村ニハ上十石ト稱シテ十石ヲ収穫スル土地ヲ一廓トシテ荒神ヲ祭リシモノナリト云ヒ市街地ニハ少ナキ神社ナリ)
 森忠政侯入府ト共二戸川宿ヲ中心ニ附近ノ土地ハ津山城下トシテ日々繁華ナル市街地トシテ人家次ギ次ギト建チタルモ旧来附近住民ノ信仰ハ、猶集中シテ衰ヘズ榎ノ側ニ小サキ社ヲ造リ竈ノ神又厨房ノ神トシテ益々祭神ヲ厳修シテ今日ニ至レルモノナリ
 松平侯時代迄ハ木知ヶ原町(現今ノ堺町)ヨリモ参道アリテ参拝者モ多ク殷賑ナリシガ参道附近ノ繁栄ト共ニ何時シカ参道ハ人家ニテ塞ガリ天保中頃ヨリ新魚町ノ繁栄ニツレ後遂ニ新魚町東組ノ鎮守社トシテ専ヲ恒例ノ祭事ヲ行フ事トナリ商売隆盛ナルト共ニ崇敬愈々篤ク以テ今日ニ至レルモノナリ
 新魚町ヨリ参道ハ現在ノ西側半間程ナリシガ吉元宗治郎(入江万治郎弟)大病時共平癒ヲ祈リ其東側ヲ寄進シ現在ノ参道トナセシモノナリ(明治二十四年)境内東側堺町(現在稲村氏、住所地)ヲ荒神屋敷の稱シ神宮小林もんど明治初期住居セシ土地ナリ

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【津山人】士魂商才の実業家 磯野計(1858-1897)

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 2018年3月3日、津山市川崎にある津山東公民館で「津山市公民館講座 演題:士魂商才の実業家 磯野計ー世界のベスト(最良品)を日本へー」と題して、元津山洋学資料館館長の下山純正さんが磯野計の生涯を色々なエピソードを加えてお話してくださいました。

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