取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「」で検索した結果,2697件の記事が見つかりました。

【津山人】駒井匏軒翁碑(鶴山公園内)

komai-1.jpg

 駒井匏軒は幹夫津山候に仕へて先手弓頭となり祿五十石を食み、學問所教授を兼ぬ。兵學に通じ詩歌に巧に又書を善くす最も明楽に精通し特に横笛の妙手たり。晩年惟を垂れ名けて啓蒙學舎と曰ひ廣く青年子弟を数ふ。明治十二年七月歿す。歳五十六。匏軒文稿同詩稿の著あり家に藏す。(文:苫田郡誌より)(2017年6月14日撮影)

【津山人】駒井匏軒翁碑(鶴山公園内)の続きを読む

2018 千光寺のツバキ

sen-tsubaki-1.jpg

2018年3月14日城東地区の寺下通りを散歩していたら、千光寺の駐車場の枝垂桜の蕾が大きく膨らんでいました。もうすぐ咲くのが楽しみですね。また、千光寺のツバキの花が咲いています。とても綺麗です。お花や香りを楽しみながらゆっくりと散歩してはいかがでしょう。

2018 千光寺のツバキの続きを読む

【津山人】故郷を愛した人情作家 棟田 博(むねたひろし)

nokida.jpg

棟田 博(むねたひろし) ー故郷を愛した人情作家ー
 「降るかとみればやみ、やむかと思えば降り、昨夜は危ぶまれたが、今朝は雲も見せぬ快晴である」と書き出しているのが「分隊長の手記」である。これが棟田博のデビューになった。彼が「赤紙」の戦時召集をうけたのは昭和12年、岡山の歩兵十聠隊に入ると第二次補充部隊要員として、北支の赤柴部隊に加わることになっていた。そして同13年5月の徐州会戦のとき、台児荘の戦闘で負傷、戦列を離れた。短い戦場体験であった。棟田は正規の徴兵検査に合格、軍隊生活をおくっていたので伍長になっていた。召集で分隊長であったのはそのためだ。「分隊長の手記」は14年3月号の「大衆文芸」から連載されたが、11月には単行本になって、翌年1月までの僅かな期間に30版を重ねた。すごい人気のデビューになったが、それには次のエピソードがあった。

【津山人】故郷を愛した人情作家 棟田 博(むねたひろし)の続きを読む

第18番札所 袖椀観音(福力)

o-kannon-2.jpg

 堂内には、弘法大師と袖捥観音を祀っています。堂の表には3っの表札がかけられています。
【勝南霊場第18番観世音菩薩(白札)】
 高野山支部勝南祈四国18番霊場(木札)
 勝田西国 第12番(木札)
 この3種で、霊場巡りは、明治20年(1887年)頃から盛んになりました。
 昭和10年(1935年)頃でも、先達を中心として白衣姿の巡礼が札所を巡っていたのが見られ、札所近くの人が接待や仮宿をしていました。この巡礼めぐりの創設は、718年頃と言われています。
 【由来】文久元年(1861年)、辛酉の年のこと、殿さまは松平慶倫公で、前年には徳川幕府の大老井伊直弼が水戸浪士に討たれるという大事件【桜田門外の変】がありました。

第18番札所 袖椀観音(福力)の続きを読む

山口誓子 文学碑(衆楽園)

IMG_5198.JPG

「絲櫻水にも地にも枝を垂れ」(衆楽園)
 山口 誓子(やまぐち せいし)明治34年京都市生。昭和23年、俳誌「天狼」を創刊、主宰。
昭和54年、西東三鬼の「花冷え碑」対面に訪れた折、衆楽園を吟行しこの句を残した。平成4年文化功労者顕彰。「激浪」「遠星」「七曜」などの句集がある。(文:津山文学碑めぐり)(2016年11月12日撮影)

山口誓子 文学碑(衆楽園)の続きを読む

吉田神社(西吉田)

yoshida-19.jpg

由緒・沿革 
 吉田神社の前身として、西吉田には2つの神社がありましたが、年代は不明とのことです。昔、出雲大社から御分霊を迎えて、西吉田地区内の南と北に祀りました。1社が現在の吉田神社の地、もう1社が現在金刀比羅宮のある地です。当初は、大国主神社と言っていましたが、その後、両国主大明神と改称しました。戦国時代、山名氏と戦い、敗れて西吉田に住み着いた難波氏がこの神社の社務に従事したとのことです。又、江戸時代、天明7年(1787年)西吉田が、千葉県の下総佐倉の城主堀田正順の領地になった時、現在の吉田神社の南下に陣屋を設け、この神社を鎮護の神社として、毎年3俵の寄進をしたとのことです。
 その後明治4年(1871年)2月に、北の国主大明神を南の現在地に合祀して、社名を吉田神社と改称しました。又、明治5年に北の跡地に金刀比羅宮を祀って現在に至っていますし、明治6年には村主となって、主祭神は大己貴神(大国主大神)です。
 昭和20年(1945年)の終戦により、国家神道は解散となり、宗教法人として再出発をし、昭和27年には宗教法人吉田神社として登録され、岡山県の認証を受けています。また平成9年よりオーム真理教の事件により、内容を再調査することとなり、毎年、報告書を出しています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化神社編』より)

吉田神社(西吉田)の続きを読む

津山武道学園主催の「武道体験スタンプラリー」が開催されました。

budou13.jpg

 2018年3月4日(日)抜けるような晴天の下、津山総合体育館(津山市山北)において、津山武道学園主催の「武道体験スタンプラリー」が開催されました。体育館のアリーナでは、武道学園の構成団体である、7団体(柔道・剣道・合気道・空手・弓道・相撲・少林寺拳法)がそれぞれ趣向を凝らしての紹介コーナーで、来場者に楽しんでもらおうと頑張っていました。お昼過ぎにはイベントも無事終了し、洗い物や屋台村の後片付けも済みました。(上記写真は柔道連盟のコーナーです。)

津山武道学園主催の「武道体験スタンプラリー」が開催されました。の続きを読む

津山城ひなまつり2018

kakuzan-hina6.jpg

 2018年3月7日津山城(鶴山公園)三の丸にある鶴山館にで津山城ひなまつり(2018年3月3日~3月11日)が開催されており拝見してきました。明治初期の雛飾りや可愛い市松人形も飾られていました。また、苅田家のお雛様は明治時代の初期~40年代のお雛様で見ごたえあります。その他、沢山の格式高いそれぞれのお雛さま達が今年も楽しませてくれました。今年はB'zの看板が飾られていて(ひな祭り期間中は勿論当分の間)何だか得した気分になりました。(2016年の雛祭り)

津山城ひなまつり2018の続きを読む

医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米町

toukaku14.jpg

医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米郡 (2014年9月17日取材)
天台宗の寺院である。作陽誌には嘉祥三(850)年の建立とあり、又、貞観二(860)年三月、天台座主慈覚大師が、清和天皇の勅命を奉じて建立したものともされている。何れにしても平安前期の開山創立ということになる。往古は十二坊もあったといわれるが保元年中(1156~1159)火災により末房悉(ことごと)く消失した。それから約六百年ばかりの間は様子がわからないが、江戸時代になって天和二(1682)年五月梁行二間、桁行二間の本堂が建てられ、それから九年の目の元禄四(1691)年三月十二日には庫裏が建築された。庫裏は敷坪十二大工、備前國奥(邑久)郡上山田村、光義次左衛門となっている。それから五十五年目の天明三(1783)年には鎮守八幡堂・門・飛境内の観音庵・大日堂が出来上がった。

医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米町の続きを読む

津山城外濠跡(津山市指定史跡)

horiato.jpg

 かつて津山城には内山下と呼ばれる総曲輪があり、その外周を土塁と濠が囲っていた。明治の廃城以後、同20年(1887)頃までには土塁を崩して濠を埋め立て、内山下は市街地に組み込まれた。そのため、この総曲輪の区域で旧状をとどめる箇所はほとんどないのだが、京橋口桝形の土塁・石垣の一部と、宮川口~京橋口間及び二階町口の南北の濠の名残りとして水路が残っている。

津山城外濠跡(津山市指定史跡)の続きを読む