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武家屋敷の名残り

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 津山市田町の福島真道さんのお宅をお尋ねしてきました。福島さん宅は、元々は武家屋敷だったそうです。今は建てかえられて何も残っていないそうですが、敷地内の溝の石垣と榎の木だけが残っているそうです。また、近くにある竹ノ馬場を福島さんと大村圭二さんに案内していただきました。(撮影2017年8月26日)

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百乢の地蔵菩薩立像

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 百谷(ももたに)のはずれを左にとり急坂を登りきると百乢(百谷峠)に辿りつく。百乢は往来随一の難所といわれ、坂道の距離十七町余、百乢には一里塚があった。『作陽誌』によれば百谷や一里塚について次のように述べている。「百谷は井坂村にあり近世井村という(注:百谷村は井村と寺ヶ谷村に分かれている)。坂路は峻高で後から登る人は前を行く人の腿が見えるのでモモタニの名がついた。腿と百は訓が相通じるので今では百谷という。坂長十七町余、峠に里堠がある。養野村に通じ百谷越という。伯州通路なり」とある。一里塚のあったとされる場所に、朝倉兵衛門の寄進による石造地蔵菩薩立像(峠地蔵)が旅人の安全を祈願して建つ。年銘は読み取れないが、中養野の地蔵菩薩(六地蔵)に朝倉平右衛門の名がみえる。「施主 御茶屋□倉平右エ門」とある。□は欠損部分であるが、峠地蔵と合わせてみれば同一人物に間違いない。したがって、他の六地蔵の年銘が寛政四年であるので、峠地蔵もこのころの建立であろう。(文:『第6節 近世の交通』より)(2017年4月30日撮影)

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人形仙母子地蔵

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 人形仙三十七人墓を西に約100m進み、二本杉の所より北へ約800m進むと、旧倉吉街道(伯耆往来)の美作と伯耆(ほうき)の国境の人形仙峠に、赤子を抱く形の珍しい「母子地蔵」がある。この地蔵は、高さ1.25mあり、文化5年(1808)に造立された。像要が赤子を抱いた地蔵となっているため、俗に「子抱き地蔵」とか「母子地蔵」とよばれ、人形仙の伝説にも残されている。前の水祭石は、明治14年(1881)米子の商人が奉納したものである。
銘文 (地蔵)天下太平 文化五辰□ 志主 上斎原村 十方 三界万霊 願主 作州西北條郡日月清明 六月吉日 沖村 □之助 (水祭石) 奉納 伯州米子茶屋 商人本田勝四郎 明治辛十四年巳七月吉日 (文:『鏡野町の文化財』より)(2017年4月30日撮影)

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瑠山 醫王寺(いおうじ)(下紺屋町)

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津山市下紺屋町にある真言宗醍醐派 瑠山 醫王寺(いおうじ)が、前から気になっていましたので、ご近所の方にお聞きしました。「昔は商店街の皆さんで寄付を募り、祇園様などのお祭りも賑やかでした。今は商店街も段々と廃れてきてしまいお祭りもしていませんが、また、年に一度くらいは堂内で会議も出来たらいいと思います。そうしたら、また皆でお掃除でもできるのですが・・・。それに、松平家も平沼家も寄付者になっておられるので何か由緒もあるのでは。」と語っておられました。また、泉水寺の住職にお聞きすると、「先代から引き継をしていなかったので詳しい事は解らないが祇園信仰(牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰である。明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする。)の流れで建立されたのではないか。」とのことでした。(2017年8月23・25日撮影)

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人形仙三十七人墓

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上斎原振興センターより人形仙林道を北上し、美作北2号線との合流点より西側へ50mの所にある。
 この人形仙一帯は、江戸から明治時代にかけてタタラ製鉄が稼業されていた場所でもある。
 明治12年(1879)と19年(1886)に、全国的にコレラが大流行し、それぞれ10万人前後の病死者を出した。人形仙鉄山でも明治12年夏に流行し、当時の鉄山人口の約200人のうち62人がコレラにかかり、37人が死亡した。三十七人墓はその供養である。(文:『鏡野町の文化財』より)(2017年4月30日撮影)

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伯耆(ほうき)往来「距津山元標五里」

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距津山元標五里(2017年4月30日撮影)
 江戸時代が終わると、明治政府は道路網の改革に着手しました。明治2年(1869)1月には、行政官布告第59号により、全国の関所を廃止しました。
明治6年(1873)12月には、大政官布告第413号により、全国の主要道路の実測調査を実施し、1里ごとに里程標柱を整備するよう通告を出しました。起点は、東京日本橋と京都三条大橋及び県庁所在地としました。布告の中には全国41のルートが記されていますが、その中に「播磨国姫路より美作国津山夫より伯耆国米子に至る」とあり、出雲往来も含まれています。
 この布告により、美作北条県は、明治5年(1872)8月から明治7年(1874)2月までの間に、管内の津山往来、出雲往来、伯耆(ほうき)往来、因幡往来の実測調査を実施しました。そして、宮川大橋西詰を起点として、桧か松製の標柱を設置し、明治7年2月末までには完了したものと思われます。その後順次木製から津山石(擬灰岩)製に取り替えられました。この時の道標が、「津山元標」と呼ばれているものです。

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元魚町の古称刻む徳守神社境内の石灯籠

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 慶長九年(一六〇四)、森忠政は徳守神社を城下の総鎮守として、築城と城下作りに取りかかったといわれる。以後、徳守さまと呼ばれて津山の人々に親しまれ、今も津山祭の中心として秋祭はにぎわう。その境内の北西の角、住吉神社の前に高さ約二㍍の二基の石灯籠が立つ。すっきりしたデザインは風格を感じさせる。左側の石灯籠に「寛文四年(一六六四)辰九月十九日古魚町」と刻まれる。右側の石灯籠には「寛文四年(文字が消えかけているが、間違いないと思われる)辰九月十九日二丁目」とある。
 寛文四年は津山城が完成した元和二年(一六一六)から四十八年後。森藩が徳守神社北側の武家屋敷の一部を町家にして、宮脇町と名付けた明暦元年(一六五五)よりも九年後。この時期に、藺田川以西の町も城下に編入されていった。城下の町々が整い、発展を見せていた時期といえる。二基の石燈籠はそうした時期に、隣接する古魚町(元魚町)と二丁目が協力して町の発展を願い、寄進したのであろうか。森藩時代の町々の記録が少ない中で、この石燈籠に刻まれた二つの町名は当時を窺わせる貴重な資料の一つと思われる。二丁目と元魚町の中では最も古い記録である。

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境の榎(えのき)

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 徳守神社の宮脇門から北を見ると至近距離、竹ノ馬場境に榎がある。これも大きく高い、昔から「境の榎」とされた一本である。南新座の方へ下りて、元の市立中央幼稚園のあった空き地の裏にも「境の榎」は残る。そこから少し東、妙願寺の南、長泉寺の裏にも一本があるが、上部が切断されている。
大木の落葉は墓地の大敵なのだから、止むを得ず「こうして境の榎は滅んだ」となるのであろう。また田町出雲大社の中には、囲いに保護された榎がある。これは田町中に数十本あった境の榎のやっと残った一本である。椋と榎いずれも城下町のシンボルには違いなかろう。(文:故 白石哲氏

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若宮神社の椋の木

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 西寺町と茅町との境になる裏通りに若宮神社がある。鳥居の内に二間四方の小さな社殿があるが、この家の中から大木が生えている。樹齢四百年と言われ、優に二抱え高さ二十㍍に及ぶ椋の木である。
この木は徳守神社の社前にある椋と兄弟木という言い伝えがある。その神木伝説があるから社殿と一緒に残ったわけで、四百年ならば、築城記念の中に加えなければなるまい。徳守神社の表の石垣にもたれる椋も大きいこと周知の通りである。(文:故 白石 哲 氏)(2017年4月23日・24日)

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