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久米廃寺出土塑像仏及び遷仏(県指定重要文化財)

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久米廃寺出土塑像仏(そぞうぶつ)及び塼仏(せんぶつ)50点(津山郷土博物館)
 津山市久米廃寺は、吉井川の左岸の丘陵南裾に立地する飛鳥時代から平安時代前期にかけての寺院跡である。塔を中心に東に金堂、西に講堂が近接し、それらを回廊で取り囲む伽藍配置が確認されている。寺域は東西約130メートル、南北約110メートルである。複数棟の寺院建造物跡が検出された地方寺院跡として学術的価値が高く、昭和52(1977)年4月8日に県指定史跡に指定されている。
 出土遺物には多量の瓦片や土器片に加え青銅製相輪や石帯等があり、その中に塑像仏の破片と仏が含まれている。出土地点は塔及び金堂周辺であるが、特に塔の周囲からは焼土、壁土が混在して出土しており、一括廃棄の可能性が高い。
 塑像仏は小片であるが、様々な部位が確認されている。如来像としては螺髪が確認され、その大きさから丈六仏と推測されている。また、頭髪部分や顔面、臂釧、指先、裳や裙といった衣装、胸甲、台座反花が見られ、複数軀の像が存在したことを示す。頭髪の様相から菩薩像の存在が、胸甲から天部像の存在が確認される。いずれも被熱しているものの、顔面や衣装は表面を仕上げ土で滑らかに整形し、丁寧に造作されたことが窺える。
 塼仏は火頭形で、独尊形式の如来坐像を表現したものと三尊仏を表現したものがある。2点出土した独尊形式の如来坐像の塼仏は同笵と考えられ、顔面に金箔が認められるものがある。
 塑像仏の出土事例は県内でも限られ、特に菩薩像や天部像は本遺跡での確認に留まり希少価値が高い。
 また、複数種類の塑像仏の存在は堂内荘厳をよく示し、7世紀における地方寺院の信仰形態を考える上で重要であると同時に、造形の素晴らしさは中央との繋がりも示唆し、学術研究上で貴重である。

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石燈籠と水鉢(上野田)

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 石燈籠は仏堂に献燈する用具として中国・朝鮮をへて伝わり、後に神社にも用いられるようになった。
 献燈は昼に法会を行う際、浄火としたもので、照明用具としてではなく仏前の燈明か法燈を意味するものである。
 奈良時代前期の奈良当麻寺燈籠は我が国では最も古い。はじめ堂の正面にだけ建てたものが、室町時代末期より左右一対配されるようになった。
 江戸時代から明治期にかけての形式の変化は著しく、より重量感と座りのよい四角形石灯籠に撥形の竿が利用されるようになった。(文:勝北公民館発行『勝北むらの石仏』より)

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2020年の衆楽園のしだれ桜です。

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2020年3月23日・25日の衆楽園のしだれ桜の様子です。衆楽園にはしだれ桜をはじめ、咲く時期が違う数種類のさくらの木が植えられているので、長い期間さくらの花が楽しめます。
 衆楽園は平成14年、国の名勝に指定されています。大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目です。何より無料が嬉しい大名庭園です。 今は一般開放(入園無料)され、四季折々の美しさを見せ、市民や観光客に親しまれています。

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勝北総合スポーツ公園

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 2020年3月20日の勝北総合スポーツ公園です。
雲一つない青空の下、運動がてらにスポーツ公園まで行ってきました。公園内では小中学生、親と一緒に来てる子ども達のにぎやかな声がこだましていました。また、勝北総合スポーツ公園は、約18ヘクタールの広大な敷地に、野球場、流水プール、テニスコートや子どもの丘、ローラースベリ台など多くの施設があり様々なスポーツが楽しめるところです。
2010年のプール取材記事です。)(秋の様子)(2007年勝北めぐり

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千光寺のしだれ桜が満開です。

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2020年3月23日千光寺のしだれ桜です。
 今年は暖冬のせいか、全国的にもさくらの開花は早くなっています。千光寺も満開を迎えたしだれ桜が青空に美しく映えています。メインのしだれ桜は勿論奇麗ですが、二世のしだれ桜も劣らずとても奇麗でメインのしだれ桜より少し早めに咲き始めます。また、サンシュユの大きな木にはびっしり黄色の花が咲き、その上、菜の花もコラボして美しく彩を添えます。さくら満開とあってカメラを片手に多くの人が訪れていました。

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大熊家 長屋門が復元されました。

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 大熊家屋敷跡(現津山朝日新聞社)の門が復元された。先日掲載された記事では1700年代としていたが、津山松平藩の初代家老・大熊六左衛門がここの住人になったのは1710年以降であり、それまで城内京橋門西にあった屋敷を新御殿造営に伴い転居。新築もしくは森藩時代から1世紀を経た建物を修理したと考えられる。それから約300年。明治以後150年余りの間に改修されるなどし、新聞社の業務にも使用されていた門の長屋部分は高度成長期、老朽化で取り壊された。
宝永・正徳年間(1704~13)の城下町絵図によると、大熊屋敷は現在の津山朝日新聞社に加え、土肥酒店から小野病院も含む広大な敷地を有していた。(文:津山朝日新聞2020年3月17日大熊屋敷の門復元に寄せて得能良平記事より一部抜粋)

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美作の大庄屋「土居家」(下田邑)

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土居家 土居七郎兵衛 西北条郡下田邑村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 土居氏は、伊予の河野家の末裔である。天正年間に毛利氏の武将であった土居四郎次郎が神楽尾城の守りとして入ってきたのが、田邑土居家の始まりと伝えられている。その子、孫右衛門が帰農した。七郎右衛門が寛永8年(1631)大庄屋に任命され、二男太郎右衛門が河辺村土居家、三男伊右衛門が田辺村土居家として分家し、ともに大庄屋を勤めた。

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中山神社で咲く3月の花たち

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 2020年3月12日、お昼時間を利用して中山神社参拝に出かけてまいりました。
前日に社務所前の杏子の木が満開だったのを見ていたので、丁度晴れたので撮影してきました。また、参道両脇の樹木をよく見ると、それぞれの樹木に可愛い花が咲いていました。普段は立ち止まることもなく通り過ぎていくので気が付きませんでした。

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安岡町の河川敷で祀られるお地蔵様

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 吉井川に沿って安岡町から南新座までの静かなところをお散歩すると、途中、石灯籠のところで河川敷に降りる階段があるので降りてみると、石垣に沿うようにお地蔵さまが祀られています。
 「このお地蔵様は、この辺で溺れて亡くなった子供達の為に建てたって聞いてますよ。筋違橋のもう少し上手のお花淵から水練場にかけては、かなり水量も多くて、流れもキツかったんですよね。それで何人かは亡くなった方がいたんです。ウチの母親もたまにお詣りに行ってます。^_^
 元々は対岸の津山口あたりにあったものが、あの場所に氾濫の後流れ着いたらしいですよ。」と安岡町在住の廣本 慎太郎さんより情報提供をいただきました。

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美作の大庄屋巡り「香山家」(野介代)

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香山家 香山太郎兵衛 東南条郡野介代村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 香山氏は、播磨国揖保郡香山の地名によるという。康正2年(1456)山名氏の家臣となり、香山城主であった。羽柴秀吉に攻められて落城し、香山安正が美作に逃れ、高野本郷の中島隆重の婿となった。
 森藩によって大庄屋に任命され、貞享年間に川崎村から野介代村へ転居した。
大庄屋として
 貞享元年(1684)吉井川の大洪水があり、川崎村は大きな被害を受けた。翌年、森長成の命により、川崎村200余戸と川崎八幡神社高福寺を北方の丘陵や野介代村に移転した。香山太郎兵衛は、移転に反対する百姓を説得して、移転させ、丘陵の開墾に尽力した。
 元禄8年(1695)幕府は江戸の中野に犬小屋建設を森藩に命じた。その経費として特別な負担を申し出た大庄屋や大年寄の中に香山太郎兵衛の名がある。森藩改易の翌年、松平長矩が新しく津山10万石の領主となった。この時太郎兵衛は領民の代表として土居藤七と江戸へ行き祝意を表している。

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