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皿川・広戸川に設置してある「ゴム堰」

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 2019年7月3日皿川の近くを車で移動していて、ふと川を見ると珍しいものを発見して撮影して来ました。なんでも、ゴム堰と言われる種類の堰でめずらしいものです。ゴムのチューブに空気を入れて膨らませて水を堰き止めます。
 県民局の方にお聞きすると、平成10年の災害の時に固定堰があったのですが、皿川の流域が被災して堰があふれ大災害になったことで、固定堰をゴム堰に変えたそうです。(改修工事の一環として県が工事)水量が少ない時には、膨らませて水を取る、洪水で水位が上がった時には自動でしぼむ、そうすると水量が多く流れるので水が溢れないすぐれものだそうです。

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岡山県津山総合体育館

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 昭和51年に設置された岡山県津山総合体育館です。(岡山県津山市山北669)
すぐ傍には、津山市役所や大名庭園としての国指定された衆楽園などがあります。また、サッカー大会が行われる津山中央公園グラウンドがあり、ラモスカップもここで開催されました。敷地内には立派な弓道場などがあります。お子様連れの方には公園がありブランコなどで遊べます。体育館のほか柔道場、剣道場、トレーニング室などの設備もあります。(2011年5月3日撮影)

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美作の大庄屋巡り「田口家 田口三郎兵衛」

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田口家 田口三郎兵衛 東北条郡籾山村 森藩
大庄屋まで
 田口家の氏租は、田口光政といわれ、北高田城(横野村)に居城し、山名時氏に属して、美作の平定に功労があったといわれる。後裔は尼子氏に従い、永禄の頃毛利氏の属し、神楽尾城を守っていた。天正7年(1579)の落城後、宇喜多氏に属した時もあった。
 田口三郎兵衛が森藩の大庄屋に任命され、籾山、勝部、志戸部、大田、川崎を合せて所管した。
大庄屋として
 三郎兵衛は、森長継が家督相続をした時、有元平左衛門、中島九郎兵衛、鈴木九右衛門らと共に祝賀のため出府している。
 津山市上田邑の田口山引乗寺は光政により創建され、田口家の菩提寺として庇護された。

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原の供養碑・札場跡

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原の供養碑・札場跡(原)
 原の出雲街道旧道にあり、「間務阿弥陀仏三十一カ遍供養塔」と「天保三年吉祥日坪井上村中組構中」と刻まれている。札場跡は江戸時代に藩の奉行所から村人に知らせる場所があった所。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)

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山根の長者屋敷跡と貞清五輪の墓(坪井下)

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 山根の長者屋敷跡と貞清五輪の墓(山根)
天文の頃、貞清四郎左衛門が山根市場に居住しており、山根の長者と呼ばれていた。今も屋敷跡に古井戸がある。この屋敷跡の東の国道を超えた田の中に五輪塔がある。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)

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愛宕山大権現(安井)

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 京都の北西にある愛宕大権現は、王城鎮護の神として崇拝し、また火伏せの神として信仰を集めており、どの村でも愛宕様の祭りは行われている。
愛宕祭りは、正月二十四日とその前後を祭りの日と定め、また月々二十四日を愛宕精進といって酒を慎む人が多かった。
 祭りは炬火を燃やして神事を行い、火災に備えるために愛宕の神に紙の弊を供えて、これを有事の際にその弊を立てて火災を免れたという話はこの村にも伝えられている。また、愛宕の代参講も行われるなど、火伏せの神としての祭りは村の大切な行事の一つであった。

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坪井鉱山選鉱場跡・茶臼山古墳(坪井上)

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 坪井上立野の谷にあり黄銅鉱を産出。文久元年(1861)の頃採掘を始めた。明治30年頃から大正にかけては一時大盛況となったが、大正末に休山。昭和10年頃、昭和鉱山KKが再度始めたが終戦後銅価の暴落で閉山。すぐ後ろの山が茶臼山古墳である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)

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