ただいま6月22日に発生したサーバ障害の影響で一部コンテンツを正常に閲覧できなくなっています。皆様にご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございません。

愛山松平家墓所

(2009.7.14)

愛山松平家墓所 (昭和48年10月20日津山市指定史跡)

 この墓所は、明治4年(1871)に没した最後の津山藩主松平慶倫を神式で埋葬した所である。正面の唐門をくぐって敷地に入ると鳥居があり、灯籠が立ち並ぶ参道の奥に墓碑が建つ。側には夫人の爪髪も葬られている。鳥居脇には旧藩士の大村斐夫撰による「故津山藩知事正四位慎由源公神道碑」がある。墓所名に冠せられている「愛山」は周辺一帯の呼称にちなむものである。
  松平慶倫は、松平家の第7代藩主斉孝の四男して文政10年(1827)閏6月5日、津山城内で誕生した。幼名は温之助・龍次郎・淵之丞、8代藩主斉民の養子となる。嘉永元年(1848)に元服、慶倫と名乗り三河守に任じられた。安政2年(1855)斉民の隠居により家督を相続、藩政に当たる。ハリスの通商条約要求に際しては、ペリー来航時の斉民の開国論とは異なり、攘夷論を唱えた。文久3年(1863)には国事周旋の内勅を受けて上京している。8月18日の政変後は、津山藩でも攘夷派を弾圧するようになる。両度の長州出兵には消極的ながら参加。大政奉還から王政復古にかけての時期には、親藩という立場上対処に苦慮し、その上に前藩主斉民がその出自ゆえに徳川家から頼られることも多く、慶倫としてはひたすら朝廷への恭順を示すことで難局を乗り切るしかなかった。明治2年(1869)版籍を奉還して津山藩知事に任命され、同4年(1871)の廃藩置県に伴い免官となるが、わずか10日後の7月26日に津山において病没、45歳であった。
ここで墓所のある愛山一帯の歴史に触れておく。この地には古くから愛宕堂があり、森家の第3代藩主長武により大猷院(家光)・厳有院(家綱)の位牌が祀られ、天和3年(1683)東叡山寛永寺の末寺として「愛宕山寿延寺地蔵院」の称号を受けている。ここに東照宮を勧請したのが森・松平家のいずれであるのかは今のところ不明であるが、遅くとも享保年間(1716〜36)半ばまでには勧請されていたようで、地蔵院はその別当寺に位置付けられた。明治初期の神仏分離以後も東照宮は松平家が所有し、付近に同家の津山事務所が置かれるなど、松平家にとって愛山は由緒の深い土地であり、慶倫は東照宮の参道脇に埋葬されたのである。なお、昭和30年代の幼稚園建設に伴い東照宮社殿は移転され、旧別当寺である地蔵院の本堂としての機能も併せ持つようになったけれども、境内の旧観は損なわれてしまった。
  ちなみに、墓所の表門である唐門は元は東照宮神門を総門の位置に下ろしたものであり、元の総門は大谷の教本寺に「移転されて表門として使われている。社殿・門共に文化11年(1814)家康の二百回忌を契機に松平斉孝が造営したもので、社殿の形式は典型的な権現造である。(文:津山の文化財より)

▲旧藩士の大村斐夫撰による「故津山藩知事正四位慎由源公神道碑」

▲愛山廟門の横にある

▲谷崎潤一郎の記念碑

▲だんじり倉庫横には、バナナの実がなっています。


「愛山」というのは愛宕山の中の字「宕」を抜いたもの。藩主が東照宮参拝の折、休憩所として建てたものを「宕々庵」と名付けた。もとの東照宮はいま地蔵院の本堂になっているが、建物は昔のまま。旧松平藩関係者が協力して残したともいえる。それが愛山東照宮奉賛会となって今日も毎年6月1日に神仏合同の追恩会を行っている。

▲1814 文化11年のものと思われる東照宮本殿の棟瓦。

地蔵院の寺紋です。


★地蔵院はこちら


▲愛山廟内側より

家康の二百回忌を契機に松平斉孝が造営したもの

▲津山松平家九代、慶倫公夫妻の墓所、愛山廟の門はもと東照宮の唐門であった。

▲内側から見る

愛山東照宮はなくなったが、いまの鶴山幼稚園のところに拝殿と本殿があり、地蔵院にひき移転した。

その外側に垣があり、内部一面の庭に川石がいっぱい敷いてあった。これは松平の家臣団の家族が子どもまで出て吉井川の河原石を拾って奉納したといわれる。社殿の移転ととき、美しい川石を残したい、という声が高かったが、残すなら地内でないと意味がない。そのため下の慶倫公の墓所に少しでもと移したものが、いまもかなり残っているという。

▲二宮尊徳像

苫田小学校にあったもの。


(資料:地蔵院より提供)

▲松平慶倫公の墓の前の鳥居

愛山廟には士族一同奉献の石灯籠など、時期が廃藩置県当時だけに、士族の心境をのぞかせるものが珍しい。

▲津山藩主松平慶倫公の墓

▲松平慶倫公夫人の墓
ここの慶倫夫人静子さんは九州黒田家から嫁した。また、静子夫人はこの時代に乳ガンの手術をしたことでも知られている。

▲宕々庵(愛山廟前)

藩主参拝時の休憩所で弁天池の配置の立派な「宕々庵」という建物があった。戦争中は文豪谷崎潤一郎が疎開生活し「細雪」をここで執筆。

(現在だんじり倉庫となっている)