傘福・・・・・山形県酒田市

 

 

江戸時代において酒田は米の積み出し港として栄え、北前航路(西廻り)を通じて京都との交流があったことから、おそらく北前船によって伝えられたものと考えられています。酒田祭り(旧山王祭り)には亀鉾とよばれる山車の上に傘を建て小槌、宝珠などが飾りつけられます。
これは1765年に酒田市の豪商・本間家3代本間光丘が、京都の祇園祭山鉾巡行に習い、山王祭りを盛大にすることによって酒

田の町を活性化させようと京都の人形師に山車製作を依頼したもので傘福の原型と考えられています。
近年、酒田市指定有形民俗文化財「酒田山王祭例用亀笠鉾」として復元され、現在、本間美術館(かつての本間家の別館)に庄内藩の御用商人だった風間家の1対の傘福が雛壇とともに飾られています。
これが傘福と桃の節句を結びつける由縁のようになっていますが、本来この風習は観音堂に安産や子供の成長を願って地元の神社に納めたものであり、昔から傘の中には魂が宿るといわれ子どもが健やかに育つことを思い、また様々な願いを形にして61種類の細工が吊り下げられているといわれます。
これら風習も衰退の危機にありましたが、近年、柳川さげもん、伊豆稲取雛のつるし飾りと結び付けられ三大つるし飾りと呼ばれるようになりました。
表記に関しては"さげもの、提げもん、さがりもん、さげ飾り、さがりもの、下げもん、ひなもん"等、呼名書名がありますが正式表記は"さげもん"です。伊豆稲取は、"雛のつるし飾り"が正しく、酒田市の傘飾り"傘福"は、"傘鉾、笠福"と記す時があります。
 

雛のつるし飾り・・・・・静岡県伊豆稲取

 
江戸時代から伝わる伊豆稲取の風習で、長女の初節句に雛壇の両脇に無病息災、良縁を祈願して細工を吊すものです。元々はツルシと呼ばれ特に名称はありませんでした。これらは子供の成長とともに7歳、成人、嫁入りの機会にはどんど焼きにお焚きあげて古いものはあまり残っていないといわれます。
平成5年頃より稲取の婦人会の手芸講座による復元製作を通じて見直され"雛のつるし飾り"の名称をつけられました。
平成10年稲取温泉旅館協同組合が中心となり観光の目玉として"雛のつるし飾り"まつりが開催され、現在では近郊での類似した吊るし雛イベントの開催、外部の製作者,節句店,手芸店などによる 類似異形のつるし飾りの流通の問題をかかえており、東伊豆商工会が中心となり"稲取ももの会"を設立。また"絹の会"とともに加盟店による伊豆稲取の基準を満たしたつるし飾りの購入を推奨しています。
「桃(長寿)」「猿っ子(魔除け)」「三角(薬袋香袋)」を基本として50種の細工があります。こちらは5列の赤糸に各11個の細工をつるし計55個(参考図)にそ ろえます。
配置はドーム型の交差した中心に1列、さげわの4点に1列づつの計5列、これを対で製作することにより計110の細工がつるされます。
 

柳川さげもん・・・・・九州福岡県柳川市

 
"柳川さげもん"は、城内の奥女中が着物の残り布で、子どものおもちゃや琴爪入れを作ったのが始まり。そのうち、それらを下げて楽しむようになり、今に至っています。
さげもんは、7×7=49ですが、子どもの健やかな成長と人生50年と言われていた時代に、1年でも長生きしてもらいたいという親の願いを、さらに縁起をかつぎ、50という偶数では割り切れるので、さげもんの輪の中央に大きな毬を2個下げて51にして飾るようになりました。
さげ方は上に飛ぶもの、中間に山のもの木になる(咲く)もの下に水中のものを基本としています。

蝉・・・・・・・・・・

鼠・・・・・・・・・・

蝶・・・・・・・・・・

兎・・・・・・・・・・

猿・・・・・・・・・・

鳩(カナリヤ)・

ひよこ・・・・・・

鶏・・・・・・・・・・

鶴(亀)・・・・・・

唐辛子・・・・・・

梅(花)・・・・・・

桜・・・・・・・・・・

桃(実)・・・・・・

みかん・・・・・・

桔梗・・・・・・・・

おくるみ人形・

這い人形・・・・

袖振り人形・・・

三番叟・・・・・・

おかめ・・・・・・

瓢箪・・・・・・・・

宝袋・・・・・・・・

蛤・・・・・・・・・・

金魚・・・・・・・・

海老・・・・・・・・

 

土の中に何年もいて、辛抱の象徴、元気な産声

子沢山

蛹から蝶へ。きれいに着飾らせて嫁に出したい親心

おとなしく、でも雪山を元気に遊びまわる

子どもを大事にする。元気に遊びまわる

幸せと平和のシンボル(美しい歌声)

かわいらしさ、あどけなさ

朝、早起きで、つがいで仲良く卵を温め育てる

長生き

小さくても、ぴりっとしている

寒さに耐えて、春にさきがけて咲く

みんなを楽しませる

完成

城内の宮川家のみかん

ものしずかで、上品な花

生まれたばかりで、かわいい赤ちゃん

生まれて、はいはいするようになった親の喜び

「はえば立つ。立てば歩け」の親心

祝いの席の舞

女は愛嬌美人になりますように

無病息災

心の豊かさ

二夫にまみえず

ゆるやかに泳いで、人の目を楽しませる。

年老いて、腰が曲がってもなお元気

(柳川まり保存会では海老が無く苺になります 栄養豊富で春をつげる)
さらにこれらの細工の間には三角,四角の金紙が貼り付けられます。これはお金に例えられ、生活に困らない様にとの金縁の意味が含まれています。さげわの部分には赤糸との結び目に華をあしらいます。これを1対で揃え、お雛様の両端に吊るします。これがさげもんの基本的な飾りつけになります。まりは木目込みまりや七宝まりで製作されたものもありますが、柳川まりを使ったものが貴重とされ主流です。本来は草木染めの糸、近年ではリリヤーン、現在では堅牢ピューロンによる手巻きの柳川まりが加わることが容易に真似る事のできない柳川さげもんの特色です。

 

伝承さげもん

 
さらに厳格にさげもんを規定すると伝承さげもんになります。
柳川では北島 妙(たえ)様(柳川まり保存会会長)含四名のおばあちゃんで作られる さげもんが代表作です。皇室女児生誕の御祝の機会には北島 妙様,先代北島ミチ様の柳川まり、さげもんが柳川より贈られています。
金魚に金字での模様付け、苺、さげ輪に桜型の八女手漉き和紙を貼り付けてあるのが特徴です。皆様ご高齢で近年は3対しか製作なされないそうです。すべて下げる動物、這い人形、まりの位置が決まっていて形を変えたり、新しい細工が加わることもありませ ん。

北島 妙様は叔母の北島ミチ様と共に立花家奥女中であった池松フユ様より師事を受けられておられ、大正時代頃までは旧柳川藩のなごりつよく立花家へのおつとめの際は女性のたしなみとして柳川まり、細工物を習い受け継がれていたそうです。
この風習技術は彼女らの里帰りを通して庶民にも伝わり、雛壇をひきたてるものとして、又、雛壇を用意できない家庭でもせめて初節句を祝ってあげたい気持ちからさげもんをふとんハギレでつくられたそうです。

さげもんの一般的な普及にあたっては30年以上前に当時、柳川に滞住しておられた酒井愛子先生(1951年装美あみもの学園を設立)がさげもんの基礎を北島 妙様より学ばれ、手芸の延長として取り組みやすい形にて婦人会等で広く御指導なされたことで多くの御婦人がさげもん製作を学ばれ、引き継がれています。現在、酒井先生は東京に移られましたが、さげもん、縮緬細工、手毬に関した本を度々出版なされておられます。
北島様のさげもんは柳川藩立花家名勝 御花、柳川銘菓越山もちの白雪堂 越山本店にてさげもん巡りの際には展示されています。

←北島 妙様のさげもん配置図(柳川まり24個細工25個で構成されます)
大まりは上段大まり菊(三菱帯)国花、下段大まり梅(白梅)福岡の県花
柳川まり保存会における伝承型で昭和初期の代表的な型です。
昭和56年に別の伝承さげもん作者より戴いた配置図

※記事参考

http://www13.plala.or.jp/hakusyuu/sanndai.html