大きな丸顔につぶらな瞳、身長約2メートルの2等身。
元気に動きまわる姿が愛らしいかたみくんは、 なんと実在の人物、
初代美作国司の上毛野朝臣堅身(かみつけぬあそんかたみ)が、
モデルなんです!
1300年前に実在した、かたみくんって一体どんな人だったのでしょうか?


平安時代の初めに編集された『続日本紀(しょくにほんぎ)』による と、私達が住んでいるこの美作国は日本国の古代史上において、建国の由来が史料で確認できる数少ない重要な地域のひとつなんだそうです。
美作国は、和銅6年(713年)百済王族の流れを汲んだ備前守である百済王南典と備前介の上毛野堅身の提案によって、英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の6郡が備前国から分離して設立されました。初代の美作守(今で言う知事みたいなもの)になったのがその提案者の 上毛野朝臣堅身でした。
百済王族は白村江の戦い(663年)以来の帰化氏族のひとつで、中央貴族として天皇に仕え、大きく繁栄した一族で、上毛野君もまた渡来系氏族を含んでおり、東国(今の関東地方、栃木県あたり)を地盤とし活躍していました。上毛野君の関係氏族は古代貴族の国史編纂・律令制定に深く関わり、中央の貴族官人として優遇されていて、氏族全体として、ものを書くことにかなり習熟していた知的な氏族グループだったようです。かたみくんはきっと美作国を設立する行動力と知性をあわせ持った人だったのでしょうね!!


写真:白猪屯倉の碑
(岡山県真庭郡久世町)
美作国建国1300年公式HPより

さてさて、私達たちが住んでいる美作国の前身は大化の改新(645年)の際に廃止された「白猪屯倉(しらいのみやけ)」であったと考えられ、鉄生産の役割を担っていました。屯倉とは大和朝廷の直轄領で、政治経済上の要地に設置され たようです。 美作地域の古墳からかなくずや陶棺(焼物の棺)が発見されていることから、大規模な製鉄技術や須恵器製作の技術はそのころに「白猪屯倉(しらいのみやけ)」の管理に携わった百済系渡来民族の人々からもたらされたものだと言われています。当時の日本は文化・技術の面で発展していた朝鮮半島などから積極的に渡来人を受け入れていました。白村江の戦いで百済が滅亡してからはかなりの渡来人が亡命してきたと言われています。
美作国の新設は大和政権の渡来系民族定住政策で、渡来系氏族の勢力の発展を抑えるための計画だったようです。また同時に美作国の分離によって鉄資源を大和政権と並ぶほどの勢力を持っていた吉備氏から直接大和政権の管轄下に置くことで吉備氏を弱体化させることが目的だったともいわれています。こうやって美作の歴史を紐解いていくと、私たちの祖先は百済人なのかもしれないと、遠い古に思いを馳せてしまいます。

[ 参考文献:古代東国の王者〈改訂増補版〉/熊倉浩靖 著 ]


       
現代に蘇ったかたみくん、美作国建国1300年のPRのために日夜活躍中!!
様々なイベントに出かけるのはもちろん、最近では美作地域を巡って色んな体験をしているようです。
大きな頭で元気いっぱい動きまわるかたみくんの活躍を、みんなで応援しましょう!!
[ 写真:美作国建国1300年公式HPより ]

■美作国建国1300年公式ホームページ  http://mimasaka1300.org/
美作国建国1300年を記念して様々なイベントが開催されています。
詳しい内容は公式ホームページをご覧ください!!

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