▲供養塔
▲地蔵
長法寺略縁起 美作国金光山長法寺は天台宗比叡山延暦寺の末寺であります。 当寺の由来を尋ねるに、聖武天皇の御宇天平7年(735)行基菩薩の草創による霊場と言われ、嘉祥元年(848)第二祖慈覚大師が西国行脚の砌(みぎり)、当山に止宿し、十一面観世音菩薩を刻み、草堂を結び中興されたのであります。その後、堂塔迦藍を建立、末寺ニ十ケ寺に及び頗る盛んなものであったが、大永・天正・貞享年間にわたって再三兵火の侵す処となり、悉(ことごと)く焼失し、現今の地へは弘化2年(1845)快玄法印の移したものであります。 当寺は又、美作西国霊場廿九番の札所であり ここはまたこがねの光る山なれば したがう法のたまやもとめん の御詠歌があり、庶民信仰の霊場として、済世利民の益多く、今日尚益々盛んであります。 (長法寺)
▲噴水
▲おトイレから登る
▲さるすべりの木の中は空です。
▲燈籠
寺宝"大蛇尾骨" 美作国山北の里に鵜田勘治光行と言う文武に秀でた若者がおり、永久2年(1114)3月、高野神社に参詣の途次、冨川の里(現戸川町附近)で郷士砂田庄司氏勝の娘亀千代を見初めた。やがて二人は深いつき合いをするようになったが、このことが氏勝の耳にはいり「不義密通はお家の御法度」、怒った氏勝は光行の家を攻め、皆殺しにしてしまった。光行の死を悲しんで亀千代は気が狂い、小田中在の渕に身を沈め、大蛇に化けて大洪水を起こし、家や田畑を流してしまった、と言う。この「大蛇尾骨」が秘宝として伝わっている。長さ33センチ、干ばつの時、雨ごいをすれば、たちまち雨が降るといい伝えられている。
長法寺 〒708-0885 岡山県津山市井口 246 TEL(0868)22-6436
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▲仁王門
▲仁王門 本尊の守護として仁王像(金剛力士)を安置している。ともに念怒の形相を示し、金剛杵を武器として持つが、左の像は口を閉じ(吽形)右の像は口を開いている(阿形)。 仁王像の腹部にはお腹払といい仏像をおまつりしている。仁王門像は江戸時代初期の作と云われ、作者は不詳。(北向きに建っていて前には小川が流れている所にある仁王様は珍しいのだそうです)
▲このわらじは、足の痛い人が奉納されたのだそうです。(その後足が痛くなくなったそうです)
▲石垣は約300年前のもの
▲紫陽花
▲阿弥陀堂(説教堂) 阿弥陀如来を本尊とし、脇侍に天台大師、伝教大師をおまつりしている。現在のお堂は弘化2年(1845年)西方にあったものを移し、阿弥陀堂兼客殿として再建す。 明治6年(1873年)津山城取り壊しの際贈られた。本丸御殿の鬼瓦、鯱(しゃち)、紫陽花(あじさい)の絵を描いた襖障子がある。
▲紫陽花とつつじ
▲美しい色です。
▲薄田泣菫先生 (ススキダキュウキン)本名は淳介 明治10年、岡山県浅口郡連島町に生る。(現在倉敷市)毎日新聞学芸部長となる。記者としてよりも詩人として有名になり、昭和20年10月生家で其の生涯を閉じた。原作は明治34年10月30日、当寺近辺を逍遥、大公孫樹を見た時の作、彼25才の時なり、詩の全体は三章百行に亘る大作なり。
▲トイレです。
▲観音堂(11面観音)
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▲鐘楼と噴水
▲延命地蔵さん
▲鐘楼
當山四十五世寂照僧正は明治33年、一生を終わるまで凡そ二十有五年の間、夜の明けるまで必ず百八つを撞いたといわれる。当時の津山人はその鐘の音で起き出で 鐘を聞いて旅立ったといわれる。明治29年津山中学教師として赴任した若き文豪田岡嶺雲は鐘の音に夏の夜の明け易きを怨み断腸の思いで津山を去ったが、一生涯鐘の音は彼の脳裏にしみ込んでいた。その鐘は大東亜戦時中、供出、現在の鐘は昭和33年再鋳したものであります。
▲名木百選 長法寺のイチョウ イチョウ(イチョウカ) 津山市井口 推定樹齢200年 明治の詩人薄田泣菫がその名著「二十五弦」に出した長詩の一節のモデルといわれているイチョウである。
▲お大師様
▲弁天さん
▲水子地蔵
▲多宝塔登りがけ
▲多宝塔階段
▲多宝塔
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