城西浪漫館

▲城西浪漫館(中島病院旧本館)

大正6年(1917年)建築の木造2階建て(延べ250平方メートル)。正面にドームを配し、屋根、窓の細かい装飾が特徴の同館は部屋ごとに異なる材質の大理石を使った暖炉があり、市重要文化財・津山洋学資料館(同市川崎)を手掛けた池田豊太郎氏の代表作の一つ。

(2009.8.28取材)

▲玄関先です。

▲中島琢之先生像

▲あぐりのロケ地です。

▲大正ロマン漂う館内のカフェでゆっくり落ち着けます。

▲中島琢之先生

▲玄関より

▲素敵なお花

▲喫茶のメニュー


〒708-0052

津山市田町122番地

▲スケッチ

▲豪華なイス

▲暖炉

▲暖炉

▲顕微鏡など

▲中島病院旧本館の歴史を振り返る常設展示場

▲常設展示場入口

▲カフェの天井が素敵です。

▲玄関先のシャンデリア

2階は貸しギャラリー(多目的室が5室あります)

▲廊下より

▲ギャラリー

▲ギャラリーにもってこいの素敵な空間です。


多くの市民の要望で保存が決定。平成20年に建物が同病院から津山市に寄贈され、津山市では官民協働のモデル事業として位置づけ、「残す」から「活かす」という共通認識のもとに地域の情報発信施設として活用されるようです。

(2009年8月中は開館記念で、フラワー作家(岡本美津江さん)によりコーディネイトされていました。)

▲天井の隅の素敵な装飾

▲暖炉のある部屋

▲格天井(ごうてんじょう)

▲2階のお部屋

▲2階のお部屋

▲階段の手すりも年期が入っています。

▲大正浪漫を感じます。

▲やわらかな光が差し込んでいます。

▲腰板が素敵です。

▲2階の暖炉とテーブル

中島病院旧本館と中島琢之先生について
 中島琢之先生は明治18年(西暦1885年)3月29日、津山市高野本郷河原森(当時は苫田郡高野村)の医師大次郎氏の長男として生まれた。中島家は代々地頭職をつとめた家柄であった。

  関西中学から一高に進み、東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)を卒業し、同医大入沢内科、日本医科専門学校教授、同校付属病院の内科部長として活躍していたが、郷土の熱望に応えて大正3年に帰郷した。

 当初、津山市(当時苫田郡津山町)元魚町に私立中島病院を開設し多くの患者が詰めかけた。その後研究のため再度上京したい考えをもらすが、「せっかくの名医を失っては大変」と名士たちが引き止めた。とくに妹尾順平氏は熱心でレントゲンなど当時の最新機器を備えた病院を造った。

 建築場所は田町の西の端で南は坪井町である。建設当時の主要交通機関の鉄道は津山口までであり、当時は西今町が津山の玄関口で、坪井町は一番の繁華街であった。よってここが建設の最適地として選ばれた。工事ぶりを眺めながら、中島先生は「これで東京に出るチャンスを失った」と冗談交じり嘆いたと伝えられる。

 中島琢之先生は苫田郡医師会の初代会長(大正9年)、岡山県医師会会長(昭和15年)、さらに医学界での活躍ばかりではなく政治家として活躍され、昭和4年に誕生した津山市の初代市議会議長、昭和5年には衆議院議員に、その後再び市議会議長になり昭和10年には第3代津山市長などを歴任された。