津田真道

▲津田真道(つだまみち)(1829-1903)生誕地

 幕末の洋学者で、明治の啓蒙思想家として知られる津田真道が18歳まで過ごした生家跡である。
 真道は文政12年(1829)津山藩士津田文行の長男として、ここ津山字林田上(現津山市上之町)に生まれた。幼名を貴久、次いで鶴太郎、また亀太郎と言い、長じて真一郎・行彦と称し、明治維新のころ真道と改めた。
生活は決して恵まれたものとは言えなかったが、真道は幼い頃から読書が好きで「座臥常に巻を釈てず」「津田真道」と伝えられている。
 嘉永3年(1850)江戸に遊学して、箕作阮甫、伊東玄朴らに蘭学を、また佐久間象山に兵学を学び、安政4年(1857)には幕府の蕃書調所に出仕した。文久2年(1862)から慶応元年(1865)まで津和野(島根県)出身の西周(にしあまね)と共にオランダに留学、ライデン大学のS・フィッセリング教授のもとで法学・経済学などを修めた。恩師フィッセリング教授旧宅に記念メモリアルプレートが設置されている。
 帰国後、幕府直参に列せられ、開成所(東京大学の前身)教授となり、憲法行政法学書の先駆となる「泰西国法論」を刊行し、明治期における三大法律家のひとりに挙げられる。また、明治6年(1873)新思想団体「明六社」の創設にも尽力し、機関誌「明六雑誌」に多くの啓蒙的論説を発表した。
23年(1890)には衆議院議員に当選、初代副議長を務め、のち貴族院議員として活躍。33年(1900)には男爵に叙せられ、36年には法学博士となったが、同年9月、東京麹町の邸で没した。享年75歳であった。

▲津田真道(1829-1903)

写真は「津山の文化財」津山市教育委員会発行より

▲津田真道生誕地横にある上之町町内会の花壇


参考文献: 「波濤を越えて」「津山の文化財」津山市教育委員会発行より

▲生家前の上之町の道

▲今は雑草が茂っている。

▲生家跡の碑

▲案内板の隅には可愛いピンクの芙蓉の花が咲いていました。

▲当時の面影を残す玄関先の石段

▲屋敷跡

▲敷地の周りの溝