美和山古墳群
▲国指定史跡 美和山古墳群(指定年月日 昭和52年3月8日 指定面積 32,025㎡) |
||||
2009.8.16取材 | ||||
▲南入口から登る階段 ▲西入口にはトイレがあります。 美和山古墳群とは 二宮の向陽(こうよう)小学校北東の丘に、美和山古墳群があります。その中でひときわ大きい胴塚といわれる前方後円墳は、長さが80メートル、高さは後円部で10メートルあります。4世紀につくられた、美作では最大級の古墳です。 この古墳は、多くの人々が山をけずり、土を盛り、吉井川から石を運び、粘土を焼いて埴輪(はにわ)をつくり、何年もかけてつくられたに違いありません。古墳には、鏡や玉や剣(刀)などが、死者と共におさめられていると思われます。 このころの人々は、自然の神につかえ、作物の豊作を祈るまつりごとを行う特別な力をもった首長だけが、クニを治めることができると信じていました。この特別な力で人々を働かせ、戦いにかり立てていたのです。この首長が亡くなると、次の首長が特別な力を受け継ぐまつりを行いました。これが古墳づくりのはじまりといわれています。 胴塚は、この地方を支配した豪族の力をあわらしたものです。 美和山古墳群がつくられたころ 3世紀の後半から4世紀ごろ、近畿地方から北九州にかけての支配者たちは、富と力をたくわえて、前方後円墳と呼ばれる巨大な墓をつくりました。市内ではこのころ、日上の天王山や、二宮の美和山、高野山西の正仙塚(しょうせんづか)などの前方後円墳がつくられています。 5世紀には、東北地方南部から九州まで古墳がつくられるようになりました。 なかでも、奈良県、大阪府、岡山県には、巨大な前方後円墳がつぎつぎとつくられました。 津山には、椿高下の十六夜山古墳(いざよいやまこふん)があります。6世紀になると、各地に小形の円墳群がつくられました。 近畿の豪族たちの中心ななっていた王は、大王(のちの天皇)とよばれ、その力は、東は関東から西は九州にまで及んでいきました。 古墳がさかんにつくられた4世紀から6世紀を、古墳時代といいます。 7世紀になると、古墳がつくられなくなり、豪族たちは、寺などをつくりだしました。 ▲トイレです。 史跡 美和山古墳群 津山市民は、美和山古墳群を、美作地方の代表的な古墳群として守ってきましたが、宅地造成で、この附近一帯が壊されることがわかり、市が土地を買い取って、1977年、国の史跡として指定を受けました。 さらに市は1984年から8年間かけて史跡公園として整備し、市民が文化遺産に親しむと共に、いこいの場となるように工夫しています。 |
▲西入口から ▲西入口の説明板 ▲6号墳です。 ▲2号墳説明板 ▲2号墳(蛇塚) ▲2号墳 ▲1号墳と休憩所 ▲休憩所 ▲1号墳の説明板 ▲1号墳 ▲1号墳にある土塁の跡 ▲1号墳の周囲には道が設けてありますので、ぐるりと回れば市内一望できます。 |
▲南入口の看板 ▲南入口の石段 ▲3号墳です。 丘陵南端に位置する円墳で、径36メートル、高さ6.5メートル、墳頂の平坦な部分の直径は13メートルあります。 ▲3号墳の説明板 ▲3号墳の西側 ▲3号墳の南にある桜の木 ▲緑が鮮やかな木です。 ▲椿の木々 ▲3号墳の立派な椿の木 ▲2,3号墳の周囲は椿の木が沢山。 ▲1号墳から市内を眺める ▲1号墳から市内を眺める |
||