千代稲荷

▲大きな赤いちょうちんが目印の千代稲荷神社(せんだいいなりじんじゃ)の本殿は津山市指定重要文化財(建造物平成15年2月17日)です。(2009.5.2)

▲倉

▲指定文化財柱


 社伝によると、承平(じょうへい)4年(934)の創建と伝えられています。

「美作国津山誌」によると、もとは鶴山八幡宮の摂社として鶴山の中腹に立地していましたが、慶長9年(1604)森忠政の津山城築城に際して、八出村に移され、同13年(1608)再度、山北村に移転しました。その後、寛永11年(1634)に森家2代藩主長継が城北に、さらに天和(てんな)3年(1683)に3代藩主長武が現在地上棟したことが判明しています。

 建物の形式は、いわゆる「隅木入春日造」と言われるものです。(津山市の文化財より)

▲本殿前

▲絵馬


千代稲荷神社

津山市山下82番地

▲太鼓橋

▲鳥居より

▲本殿を裏から望む

▲拝殿の唐破風

般若の顔が描かれていますが、魔よけのためでしょうか?

▲社務所

▲千代稲荷神社由来記

▲拝殿と本殿

▲末社神社

▲末社神社

▲末社神社

▲末社神社(奥の院)

▲拝殿

千代稲荷神社由来記

承平四年九月十九日(人皇六十一代朱雀天皇の御代)是の日、天気清朗で、お山は錦に輝き、山頂にある八幡様の大杉は天を摩し、神樹として辺りに威を放って居りました。
  里人は、手に手に御酒を携え、境内に集まり、種々のお供を奉げ、豊穣をお祈りし、酒を酌み交わして居りました。丁度その時、一羽の鶴が、矢のように穹天より舞い降りて、大杉の天辺に止まりました。里人は手を拍って大いに喜び、この鶴をよく見ますと、嘴に一把の稲を啣えて居りました。やがて瑞鳥は、人々の頭上を、大きな輪を画いて舞い遊び、其の稲を神前に落すと、東へ指して翔け去りました。里人は、之を祥慶を招くものと深く珍重し、この籾を翌年、神田に植えたところ、畦が隠れる程の収穫がありました。里人は大へん悦んで、大杉に五穀の神が降臨されたものとして、壇を築いて鶴の千歳を冠し、千代稲荷神社とあがめ、五穀の神、倉稲魂(ウガノミタマ)之命を御祭神としてお祀り致しました。そして此の大杉のある山を鶴山と呼び、毎年神田で穫れた新米を御供えするのが習わしとなりました。
  森忠政が築城の折、一時城南の覗山に遷し、後に山北の八子に移されましたが、寛永十一年森長継公の時、「鶴山に遷れば永世城の鎮護とならん」との夢の神告により、神祠を城郭の北隅の石垣の下(現在の地より五丁程上の処)に遷し奉り、神殿を新たに造営して上下一同篤く信奉致しました、
  殊に森公により、城の守護神として、現在の地に祭祀されてより、歴代の城主・庶民の篤き信仰をうけて来ました。
  津山の発展のために御降臨下さった千代稲荷神社、城の守護神である千代稲荷神社は、津山市発展の為の生産の神であり、市民の守り神であって、単なる稲荷信仰とは違うのであります。今日、城山の重要性が強く認識され、之が開発は、津山市発展の根元と云われて居りますが、城山の開発、市の発展は、先ず守護神である千代稲荷神社を尊崇するところであります。


千代稲荷神社奉賛会