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田熊八幡宮

田熊 文化財を誇る八幡宮 算学と文化財保護

2009.1月取材

 田熊の八幡宮は、国指定の重要民俗資料として、回り舞台があり、市指定文化財としての和算の算額があることで、文化財の名をなしている。拝殿には、回り舞台についての国(文部省)による文化財指定の額とともに、算額に対する津山市の文化財指定の額が、揚げられている。
 江戸時代には、関孝和等によって、日本独特の算数・数式の学問、すなわち和算が発達した。算額は、和算独特の計算法によって難解な数学的・幾何学的な問題を解明した場合、その喜びを神に感謝して、問題と解答を明記した額を作り、神社に奉納したものである。こうした献額は、江戸時代中期から明治の半ばころまで全国的に流行したようで、今も、全国各地の神社に残されている。 
 田熊には、和算の大家で算仙と言われて名高い、医師の中村周介・嘉芽市がいて、弟子たちを指導していた。田熊神社の算額は、中村嘉芽市の弟子、田熊の井上伊平治義正が明治24年(1891)5月に奉納したものである。

田熊八幡のこの算額は、縦38cm、横84cmの杉板に墨書し、図形を掘り込んだ もので、保存状態も珍しく良好であった。市内では、唯一現存している貴重なものと分かり、平成4年5月市の文化財として指定された。そして今、市郷土博物館に保存されている。


▲今は使われていないようですが、おトイレでしょうか?

←算額

▲階段は45段でした。

▲上り口は結構きついです。勇気のある方はこちらから。

この急な坂をお神輿が上るのです。皆の息が合わないと、とても登れません。

▲本殿に立てかけてありました。

▲これは馬でしょうか?

▲浄水鉢に氷が張って。

▲おトイレも新しくなって。

▲田熊八幡の全景

高台にあるので、見晴らしが良い。

▲拝殿を横から

▲本殿の屋根裏

▲紋が彫ってあります。

▲田熊の舞台説明看板

▲発見!田熊橋のりばがありました。

▲拝殿と本殿

▲本殿

▲降り口の灯篭

▲おぉ〜怖い!ころんだら最後、下までおっこちそうです。

▲急な階段を下りて更に急な坂が。

▲階段を降りきった所の景色ですが、那岐山が雪を被っているのが見えて綺麗でした。

田熊 文化財を誇る八幡宮 農村歌舞伎の回り舞台

 田熊の八幡神社は、国指定重要民俗文化財となっている農村歌舞伎の回り舞台を保存していることで、有名である。
この貴重な回り舞台の建物は、明治4年(1871)に大工の野上米右衛門らによって建築された。構造は、 間口6間(11m)奥行き3.5間(6.8m)瓦葺き入母屋造りの建物で、上手には太夫座が造り付けとなっており、舞台の中央には木車装置を有する直径4mの皿回し式回り舞台設けられている。また、舞台の背景を壁にしないで、周囲の樹木を利用して遠見がきくよう広い窓枠を設けたり、拝殿を利用して、舞台と拝殿を結ぶ花道がしつらえてあるなど、農村歌舞伎舞台としては本格的な舞台となっている。   
 こうした歌舞伎舞台ができた背景には、江戸時代後半から明治にかけての都市のから地方への歌舞伎の流行がある。

 歌舞伎の起源は、信長、秀吉のころ出雲の巫女阿国が京へ出て踊ったのが始まりとされ、その後、浄瑠璃をともなった歌舞伎芝居として発展し、江戸時代の京・大阪・江戸三都の代表的な演芸として隆盛を見た。
 やがて、旅役者が生まれたり、村人が三都の歌舞伎を習い覚えたりして、娯楽の乏しい農村地域にも流行するようになった。

 地下芝居、地狂言、地芸、村芝居と呼ばれた歌舞伎芝居は、村人の最大の楽しみともなっていった。とりわけ出雲街道沿いの播州と東作州は、素人歌舞伎の最も盛んな地方であったと言われている。
 それゆえ美作地方で、地下芝居や歌舞伎のための常設舞台は、96棟もあったとされているが、時代の変化で老朽化廃絶が続き現存するものは奈義の松神神社、中央大垪和八幡神社など17棟にすぎない状況となっている。 

▲楽屋の入り口?

▲トイレ

▲田熊八幡の奈落(地下)の柱には、旅役者等の落書きがしてあるが、それらや古老の話から、播州のたび役者をひんぱんに招いていることが判明している。兵庫県加西市の高室歌舞伎の一団は、全国各地を巡業して回っており、明治の隆盛は、その影響下にあったものと思われる。


 田熊八幡神社は、貴重な文化財をどう保存していくか、考えさせられる場でもある。回り舞台は昭和50年(1975)に、国の重要民俗文化財に指定された。それを記念して、奈義の横仙歌舞伎が上演され、現在でも立派に通用する舞台であることが実証された。平成元年には、国、県、市から補助を受けて、文化財保護のための近代的な防火措置が完備された。文化財保護委員による毎月の巡回視察もなされている。


▲歌舞伎

▲回り舞台を下から見る。

▲駒が無数あります。

▲外側から見た駒

▲舞台中央には、直径5.6mの皿回し式の回り舞台が設けられています。

▲舞台全景

花道は舞台下手と拝殿との間に渡されています。花道の屋根は常設で、歌舞伎を上演する際に仮説の床板が渡されます。このとき、花道が取り付く拝殿の腰板部分は外されて、出入り口となります。


▲田熊八幡すぐ下の広戸川沿いは、かつて和紙の製造が盛んに行われていましたが、大洪水でほとんど流されて、無くなったそうです。

▲和紙の製造が行われていた川下

▲舞台の中から那岐山が見えます。

舞台後方の開口部は、背後の山々や木立などの自然景観を借景として取り入れるために設けられた農村舞台特有のものです。

▲奈落にも数ヶ所窓が設けられ、外光による明り取りとなっております。

▲これも古そうです。

▲舞台

▲舞台上手の一段高い位置に桁行六間(11.6m)、梁間半間(1.2m)の太夫坐が造り付けられています。

▲太夫坐

▲舞台の左上

田熊 田んぼの中に祀られている祇園様

明治33年(1900年)に、どのような動機で祀られるようになったか、はっきりしない。昭和13年の棟札には、戦時色濃厚な時代背景がよく伺える。
  棟札の氏子安全や五穀豊穣は一般的だが、夏の疫病の流行や病害虫から身を守ってくれる、いわば厄疫払いが、とくに祇園様の御神徳と言われている。
  この祇園祭は、7月7日から14日までの期間、幟や奉納提灯、さらには子どもの描いた絵灯籠を奉納し、夕涼みをかねてお参りする習わしであった。かっては、子ども神輿が繰り出す盛んな時もあった。昨年度より、この期間の日曜日を祭礼日として定めて、中土居の青壮年グループ「昭和会」が準備に当たり、祇園様の祭礼並びに花火などのいわゆる賑やかし行事を行っている。

(文:広野の歴史散歩より)

(編著者:宮澤靖彦さん)

▲那岐山を背景に田んぼの中にぽつんと立つ祇園様が綺麗でした。

田熊の水田地帯の中ほどに、祇園様が祀られている。構造改善事業で区画整理されている広々とした田んぼの中に、一画だけ2〜3の樹木に鳥居と小祠の祭祀場所があるため、遠くからでもすぐ見つけられる。
  祇園様といえば、誰しも京都の祇園祭を連想するように、祇園祭を行う八坂神社から、この神様=牛頭天皇を勧請したものであることは明らかである。

▲祇園様から田熊八幡を望む。

▲祇園様