田熊八幡宮
田熊 文化財を誇る八幡宮 算学と文化財保護 |
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2009.1月取材 | ||||
田熊の八幡宮は、国指定の重要民俗資料として、回り舞台があり、市指定文化財としての和算の算額があることで、文化財の名をなしている。拝殿には、回り舞台についての国(文部省)による文化財指定の額とともに、算額に対する津山市の文化財指定の額が、揚げられている。 |
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田熊八幡のこの算額は、縦38cm、横84cmの杉板に墨書し、図形を掘り込んだ もので、保存状態も珍しく良好であった。市内では、唯一現存している貴重なものと分かり、平成4年5月市の文化財として指定された。そして今、市郷土博物館に保存されている。 ▲今は使われていないようですが、おトイレでしょうか? |
←算額 |
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▲階段は45段でした。 ▲上り口は結構きついです。勇気のある方はこちらから。 この急な坂をお神輿が上るのです。皆の息が合わないと、とても登れません。 ▲本殿に立てかけてありました。 ▲これは馬でしょうか? ▲浄水鉢に氷が張って。 ▲おトイレも新しくなって。 |
▲田熊八幡の全景 高台にあるので、見晴らしが良い。 ▲拝殿を横から ▲本殿の屋根裏 ▲紋が彫ってあります。 ▲田熊の舞台説明看板 ▲発見!田熊橋のりばがありました。 |
▲拝殿と本殿 ▲本殿 ▲降り口の灯篭 ▲おぉ〜怖い!ころんだら最後、下までおっこちそうです。 ▲急な階段を下りて更に急な坂が。 ▲階段を降りきった所の景色ですが、那岐山が雪を被っているのが見えて綺麗でした。 |
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田熊 文化財を誇る八幡宮 農村歌舞伎の回り舞台 |
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田熊の八幡神社は、国指定重要民俗文化財となっている農村歌舞伎の回り舞台を保存していることで、有名である。 歌舞伎の起源は、信長、秀吉のころ出雲の巫女阿国が京へ出て踊ったのが始まりとされ、その後、浄瑠璃をともなった歌舞伎芝居として発展し、江戸時代の京・大阪・江戸三都の代表的な演芸として隆盛を見た。 |
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地下芝居、地狂言、地芸、村芝居と呼ばれた歌舞伎芝居は、村人の最大の楽しみともなっていった。とりわけ出雲街道沿いの播州と東作州は、素人歌舞伎の最も盛んな地方であったと言われている。 ▲楽屋の入り口? ▲トイレ ▲田熊八幡の奈落(地下)の柱には、旅役者等の落書きがしてあるが、それらや古老の話から、播州のたび役者をひんぱんに招いていることが判明している。兵庫県加西市の高室歌舞伎の一団は、全国各地を巡業して回っており、明治の隆盛は、その影響下にあったものと思われる。 田熊八幡神社は、貴重な文化財をどう保存していくか、考えさせられる場でもある。回り舞台は昭和50年(1975)に、国の重要民俗文化財に指定された。それを記念して、奈義の横仙歌舞伎が上演され、現在でも立派に通用する舞台であることが実証された。平成元年には、国、県、市から補助を受けて、文化財保護のための近代的な防火措置が完備された。文化財保護委員による毎月の巡回視察もなされている。 ▲歌舞伎 |
▲回り舞台を下から見る。 ▲駒が無数あります。 ▲外側から見た駒 ▲舞台中央には、直径5.6mの皿回し式の回り舞台が設けられています。 ▲舞台全景 花道は舞台下手と拝殿との間に渡されています。花道の屋根は常設で、歌舞伎を上演する際に仮説の床板が渡されます。このとき、花道が取り付く拝殿の腰板部分は外されて、出入り口となります。 ▲田熊八幡すぐ下の広戸川沿いは、かつて和紙の製造が盛んに行われていましたが、大洪水でほとんど流されて、無くなったそうです。 ▲和紙の製造が行われていた川下 |
▲舞台の中から那岐山が見えます。 舞台後方の開口部は、背後の山々や木立などの自然景観を借景として取り入れるために設けられた農村舞台特有のものです。 ▲奈落にも数ヶ所窓が設けられ、外光による明り取りとなっております。 ▲これも古そうです。 ▲舞台 ▲舞台上手の一段高い位置に桁行六間(11.6m)、梁間半間(1.2m)の太夫坐が造り付けられています。 ▲太夫坐 ▲舞台の左上 |
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田熊 田んぼの中に祀られている祇園様 |
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明治33年(1900年)に、どのような動機で祀られるようになったか、はっきりしない。昭和13年の棟札には、戦時色濃厚な時代背景がよく伺える。 (文:広野の歴史散歩より) (編著者:宮澤靖彦さん) |
▲那岐山を背景に田んぼの中にぽつんと立つ祇園様が綺麗でした。 田熊の水田地帯の中ほどに、祇園様が祀られている。構造改善事業で区画整理されている広々とした田んぼの中に、一画だけ2〜3の樹木に鳥居と小祠の祭祀場所があるため、遠くからでもすぐ見つけられる。 |
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▲祇園様から田熊八幡を望む。 |
▲祇園様 |
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