天台宗高徳山 大圓寺

▲天台宗 高徳山 大圓寺縁起

 旧出雲往来に面した北側にあって、津山城西地区の寺町の中では最も西寄りにある。

 大圓寺は宝暦9年(1759)11月26日の大火で全焼している為、創建時の資料が残っておらず、その年代は不確かではあるが、同資料は開祖豪顕の逝去年(1653年)から考えて慶長年間(1596〜1615)であろうとしている。更に万治年間の古地図には善六寺、元禄年間のものには大圓寺とあるので、その間に改号したのだとしている。では、創建当初の「恵比寿山善六等」という、いかにもめでたい寺号はどのようにして命名されたのであろうか?

 むかし(安土桃山時代であろう)津山に皈恵比寿屋善六という雑穀商がいて、その名前とは正反対に2種類の升をを使って客をだまし、暴利をあげていた。妻は亭主の悪意を心に病んでついに亡くなったが、その後善六の友人が旅をして小田原を通りかかると妻の幽霊が出て、「亭主の悪事が気がかりで成仏できない、この有様を亭主に伝えてくれ、ついては信用できないだろうから私の片袖を持って帰ってくれ」この話を聞いた善六はついに改心し、全財産を投じて妻の菩提を祈るため現在の二階町あたりに寺を建立したとのことである。

 その後森忠政の津山入封によって城下町整備のため、今の地に移されたのである。

※(宝暦9年(1759)年の晩秋、安岡町の一角から出火した火の手は、深夜ということもあって附近の家屋を舐め尽くし、隣接する聖徳寺、大圓寺にまで及んだ。膨大な被害を出した大火も、翌朝7時頃にはおさまったが、当時藩主松平家の祈願寺として毎日、護摩を焚いていた大圓寺が全山焼亡したので、急遽八子の地蔵院を臨時の祈願所としたのである。

大圓寺の護摩供養は相当霊験あらたかであったらしく、護摩堂だけは松平家によって翌年早々に再建されたが、残りの堂宇の再興についてはその後も大変な苦労があったようである。)資料提供:大圓寺

2009.9.19

▲山門


・本尊は阿弥陀如来。

美作西国三十三所観音霊場

高徳山 大圓寺

津山市西寺町90
TEL (0868)22-3276

▲山門

▲山門正面から

▲鮮やかな芙蓉の花

▲鐘楼

▲境内

▲境内

廃寺となった第28番札所の長昌寺跡(津山市皿)

▲長昌寺の文字

▲長昌寺跡の石組み

▲長昌寺から眺める皿地内

▲記念碑

▲長昌寺跡