日蓮宗 延寿山 本行寺

▲鐘楼門

本行寺(ほんぎょうじ)の沿革
 津山市西寺町に位置する本行寺は、山号を延寿山と号し、美作地方における日蓮宗興隆の一拠点であった。

 今からさかのぼること約5百年前の文明(1469〜87)の頃、関東から守兵部保重、堅田浄作入道頼国、その子新左エ門為頼等の武人が美作に来たって林田郷に牢居した。此等はいずれも法華宗の信者であったが、当時美作地方には法華宗に属する寺が無かったので、「帝都弘道」の功績ある日像上人を開基とする京都 具足山・妙覚寺の第12世日寮上人に請いて一寺を建てんことを計った。これによって日寮上人は、照知院日立上人を下らしそのことにあたらせたのであるが、日立上人は弘法・布教の才能があり、總法・信宗するものが多く遂に堂宇を丹後山の麓に創建し、延寿山本行寺と称した。

 以来、宗風作州のうちに普及するに至ったので、日寮上人は大いにこれを歓んで祖師像を贈り、その弘法布教の労を讃えたのである。日立上人は延徳元年3月23日に寂し、以後第5世日誉上人に至ったが、この時代には宗風委びして振わず、永禄4年7月22日には日誉上人寂して法嗣がなかった。この時苫西郡入村の久塚山無量寺に法音院日繕上人が住持して居り、由緒ある本行寺の廃滅せんことを憂慮して備前金川妙国寺の日繕上人を招請して本行寺の中興とした。僧俗これに帰依するものが多く、美作地方における法華宗の総導師となった。

 慶長9年津山市街の成るに及んで南新座に移り、更に今から約367年前の元和2年に現在の西寺町に移ったのである。日繕上人は元和5年8月20日に寂し、以後第8世日栄上人の時に至って、寛文の大法難に際会し、日栄上人は宗義を持して出寺し、堂宇もまた法難の犠牲になって破滅するに至ったが、およそ200年前の文政5年6月13日、第19世日運上人の時に現在の本堂・庫裡を再建した。(情報提供:本行寺)

2009.9.19・20


また第23世日浄上人の時代には表門を再建立して右わきの「一字一石」の宝塔を造立する。そして明治34年には「開山四百年」の記念式典を厳修し、また昭和59年から60年にかけて本堂・庫裡・鐘堂・外塀等の大修理を完工し、昭和60年4月21日「開山五百年」の記念大法要を厳修し、現在に至る。また境内墓地には「人間裁判」の故・朝日茂氏のお墓がある。

▲10月に咲いたさくらの花

▲本堂脇の「ツワブキ」も黄色い綺麗な花を咲かせます。

※駐車場の「しでこぶし」も3月中旬に白いキレイな花を咲かせるそうです。

▲2009.10.15


日蓮宗 延寿山 本行寺

津山市西寺町71

▲鐘楼門

▲鐘楼門

▲延寿山の山号顎

▲境内

▲しだれざくらの見頃(4月上旬)

▲しだれざくらの見頃(4月上旬)

▲境内

▲本堂

▲庫裏

▲ひがん桜の見頃(3月下旬)

▲つつじの身頃(5月上旬)

▲境内のサツキの見頃(6月中旬)

▲本堂

人間裁判ものがたり

▲故朝日茂さん

▲朝日茂さんの碑

人間裁判物語
朝日茂さんは、1913年津山市京町で生まれました。
日中戦争中結核にかかり、国立療養所に入院していました。
  1956年のある日、ゆくえしれずになっていた兄さんへお金の入った便りが来ました。「毎月1500円送るから、栄養のある物を食べて健康になってほしい。」というものでした。
  ところが1500円のうち900円は治療費として国がとりあげました。
残りの600円では。そまつな者しか食べることができませんでした。「せめて、1000円だけは使わせてほしい」と、岡山県知事や厚生大臣に、願い出ましたが、はねつけられました。療養所の食事はそまつなものでした。
「人間の命は尊いはず、こんなことでよいのか。政治とは弱い者にに目をむけ、手をさしのべることではないのか。」
 朝日さんは、これは自分ひとりの問題ではない、国民みんなの問題だと考え国を相手に裁判をおこしました。
 1960年10月19日、地方裁判所は、「国は健康で文化的な生活を、すべての国民にたいして保障する義務がある。」という憲法にもとずいて、朝日さんの言い分を認める判決を言い渡しました。
 ところが国は納得せず、高等裁判所や最高裁判所へ訴えました。
朝日さんは、支援する多くの人達と共に、人間らしく生きられる社会を願って戦い続けましたが、1964年52歳で亡くなってしまいました。
 しかし、この裁判をきっかけに国の福祉への施策が大きく進められるようになりました。そして、この裁判を人間裁判と呼ぶようになりました。

参考文献:わたしたちの「津山の歴史」津山市教育委員会発行より抜粋

▲10月に咲いたひがん桜

▲朝日さんのお墓

▲鐘楼門を南側からみる