千年寺

▲津山の郊外に千年寺がある。(2009.4.5)

 名を長継山千年寺といい、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されていました。


 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。

(庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)

 徳川幕府と後水尾法皇は中国よりの渡来僧隠元禅師に帰依され宇治の地(後水尾法皇のご生母中和門院の別荘)を付与し、摂津国麻田藩主(青木氏一万石)を普請奉行として黄檗山万福寺を創建されました。
 美作の国主森長継公(十八万六千五百石)も又も隠元禅師に帰依し、領内に教義を具現する長継山千年禅寺の造営を発願されました。それは「泰国安民武運長久」を祈念すると同時に一種の公共事業でもありました。鎌田源太兵衛を普請奉行として農閑期に作業をし手当ては毎日支給をするように・・・又戦乱に備える要害としての機能も持たせています。
 かぐらおの山城を一望に治める千年寺は鶴山城とも連繋されていたのです。千年寺一帯は西に紫竹川が流れ周囲の山を利用して進入路を大門(田邑川東向公会堂)に集結させ龍吟径を通って寺に入るようにし、他は谷の湿田を利用して侵入を防げました。
 寛文八(1668)年十一月七日、長継山千年寺は創建され翌年の春、二月五日開山鉄堂和尚(美濃の出身)が入山致しました。

▲石柱(道しるべ)

▲旗杆石(旗をさすための石)上の穴に竹、下の穴に木を通していた。

▲石燈篭両基

奉敬立

御佛前

美作国守従四位侍従森氏源朝臣長継

寛文八歳戌申十一月の日

(この石燈篭は徳守神社と中山神社にも同時に寄進されたものだそうです。)

▲ピンクのつばき

▲白つばき

▲白つばき

▲千年寺入り口

▲階段

▲階段を登るとさくらがお出迎え。

▲千年寺の鐘楼

▲梵鐘の跡。今は滑車が付いている。

▲鐘楼の中

▲燈篭と墓塔

▲長継院殿静休道岳大居士

現化即法身

(この意味は今すぐ全ての人が幸せになれるだそうです。)

現大守森氏四位侍従

寿塔(生きているうちに建てた)

寛文九年巳酉初夏下旬建

▲黄檗二十四代當山重興石窓劫和尚大禅師之ガン

津山松平五代康哉(やすちか)公の参禅の指導をされた方で、将軍家から声がかかって本山二十四代住職となり、五百両拝領したという高僧だったそうです。(信州長野県出身)

▲頭は龍で体は亀の台座で亀扶(きふ)という。

▲つばき林

▲八重のつばき

千年寺の裏には、大きなつばきの木がある。

▲寿塔(逆修塔)は市の指定文化財です。

▲椿の花に囲まれた関森亀岳和尚の碑(江戸末期から明治にかけて寺の難渋のとき住職をされた方で陸奥宮城県の出身)

▲禁葷酒の石柱

▲さくらと枯れた紫陽花の絶妙なコントラストにうっとり。

▲客殿の跡

▲本堂と御霊屋の礎石

▲本堂と御霊屋の跡

▲井戸の傍のつばき

▲泉水の跡

▲附近見取り図

▲千年寺建物(昭和32年取壊す)

▲間取り図

金仙堂(本堂)、護法堂、斎堂、寿光堂、円通堂、鐘楼、宝蔵庫、方丈庫裡、佛殿の前石燈籠両基、門の前禁葷酒の石柱、回廊、涅槃図、狩野洞雲画、木庵和尚賛(縦1丈3尺6寸横9尺3寸)


千年寺

津山市下田邑1068

▲道路から墓地へ

千年寺入り口から道を挟んですぐ下へ下る階段がある。


▲そこを進むと木立のトンネルがあり、抜けると只今整備中の墓地へでる。


 ここは嘗て地元のおばあさんがロウソクを灯して「生き仏様」と言って願をかけに来られていたそうです。

 鐡堂融和尚が生前にご自分の墓となるこの石室で座禅をなさっていたことから生き仏様と言われるらしい。

・墓表には

元禄十五年歳次壬午

當山第二代鐡堂融和尚塔

九月二十有三日

・燈篭には

千年二世大和尚塔

と書いてある。

開基:(開基とはスポンサーの意味)長継公

開山:鐡堂和尚

▲生き仏様と呼ばれている鐡堂融和尚のお墓。(人が入れる程大きな石室)

周りには水はけを良くするための溝が二重に掘ってあるのがわかる。

黄檗の高僧 鐡堂融和尚(1630〜1702)

▲木立のトンネル

▲真ん中に見えてきました。

▲只今、整備中にて

▲當山第二代鐡堂融和尚塔

▲歴代の和尚の墓向かって左

▲歴代の和尚の墓向かって右


千年寺その後

寛政元年(1789)年六月、本堂・御霊屋を除き山門、回廊、方丈庫裡、宝蔵庫に至るまで皆焼失。その後再建。
享和二年(1802)年二月、再び方丈庫裡を焼失。その後再建。
嘉永元(1848)年夏、森越中守、森佐渡守、関但馬守よりの寄進で鐘楼(1間半×1間半)と梵鐘(径二尺六寸五分、長四尺五寸、重量八十貫、作者百済氏)を再建。

昭和17年、梵鐘は大東亜戦争の為に供出。
明治26年、最後まで残っていた本堂、御霊屋(寿光堂)を焼失。
昭和32年頃、方丈庫裡を取壊す(長継公と娘千の位牌など本光寺へ)
昭和62年夏、鐘楼を修復(屋根と瓦を新しくし同時に三基の墓碑の手入れをする)
平成6年夏、鐘楼の庇(1間半×1間半)を改築。

平成13年東と北を増築

平成21年内部の造作

本光寺(津山市一宮)