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佐良山名所・史跡 ごあんない

佐良山名所・史跡 ごあんない
 
御殿河原 中島地区の人たちは川で獲った魚を殿様に献上していました。
その縁で春夏2回殿様が中島の河原においでになり、仮の御殿を建てて、御座所とし、魚の料理を食べる行事が行われていたことから、この名がつきました。当時吉井川の魚を獲る権利は、中島の人たちのみに許されていました。
嵯峨井堰

この井堰が造られたのは森藩の時代(江戸時代初期)です。
古城東村・西村(現在の平福地区)の耕地整備に伴い、弓削の庄屋河原善右衛門に命じて工事をさせました。この時佐良神社の下から一方に流れていた皿川をまっすぐ吉井川に流す工事も行われました。
嵯峨井堰の伝説「人柱になったお福」

嵯峨井堰の工事は難工事でした。何度造っても、小さな洪水で押し流され、失敗の連続で、村人はすっかり困り果てていました。すると誰からとはなく、これは吉井川の竜神の祟りのせいだという声があがり、乙女の人柱を捧げることになりました。人柱の人選でもめていた時、川向こうの院庄の「お福」という乙女が「何千人もの人たちのためなら人柱になりましよう」と申し出ました。お福を人柱に捧げてからは、工事も順調に進み、完成にこぎ着けました。村人たちは、井堰のほとりに小さな社を建てお福を祀りお祈りしました。

嵯峨山城跡 嵯峨山山頂にあり、嵯峨山城または洲崎城とも呼ばれ、赤松孫三郎が築城したものです。その後赤松則政が守護代として入り、さらに16世紀の中頃には、尼子。その後毛利の属城となりましたが、1572年荒神山城主の花房氏に滅ぼされました。16世紀末には宇喜田秀家の家臣が入りましたが、関が原の戦いで破れ廃城となりました。
佐良山碑 嵯峨山山頂にあり、1817年津山藩士正木兵馬が建立し、小島廣厚が起草、太田真幹が揮毫とあります。内容については、『「美作や〜」と謡われた「久米のさら山」は嵯峨山のことである』と刻んであります。平成8年津山市の文化財に指定されました。
高塚古墳 この古墳は嵯峨山古墳中最大、佐良山古墳群中の円墳でも最大規模で古墳の立地も佐良山古墳群の中で最も高い所にあります。規模は直 径24m高さ5〜6mで、石室も全長9mと大規模です。時代は6世紀後半から7世紀前半と推定されます。この時代は権力者の古墳築造から、家長の古墳の築造へと変化した時代ですが、この古墳は佐良山地区でも有力者のものだったと考えられます。

中山田古墳・

古代炭窯跡

古墳時代後期の円墳で横穴石室を持つ家長墳です。直径13〜16m・高さ2〜3mで陶棺に埋葬されています。
古墳時代後期から奈良時代にかけての横口付炭窯で、たたらに使用した炭を焼いた窯と想像されます。炭を掻き出す横穴が付いているのが特徴です。
琵琶ヶ淵 昔皿川が今のように改修されていなくて現在の佐良神社の下を回りこんで一方地区の方に流れていた頃に大きな淵がありました。延久3年(1071年)に大旱魃が佐良山の地を襲い大変な被害をもたらしました。佐良山の人々は困り果てこの淵に雨を乞い3日3晩一心に楽を奏して祈っていると、淵の中から龍神(龍女)が現れ、琵琶を弾じて「流泉」の秘曲を演じました。すると忽ち大空が曇るや大降雨となり住民を救いました。その後この淵を「琵琶ヶ淵」と呼ぶようになりました。その後「琵琶ヶ淵」は津山線の敷設のため、切り取った岩石で埋められ、又、53号線の道路を作るためにすべて埋め尽くされ、現在はその名を留めるのみになっています。
日切り地蔵 2百年程前、琵琶ヶ淵の側にあったお地蔵様が、母子の仇討ちに関連して本懐を遂げるのにご利益があったことから信仰をあつめるようになりました。その後、淵の埋め立てに伴ってお地蔵様の移設が検討され、一方地区・平福地区ともに譲らず終に2ヶ所に移すことになり、現在に至っています。

佐良神社・

和歌神社

大正2年佐良山地区にあった19の神社を合祀して造られました。
境内にある和歌神社は、修理太夫顕季郷の手により建立され和歌の神を祀っています。
10 長法寺・(薄田泣菫・田岡嶺雲) 最澄が始めた天台宗の美作の国の本山として1100年ほど前に建てられましたが、過去3回焼失しています。この寺 は別名「あじさい寺」と呼ばれていますが、これは明治7年津山城が取り壊された際、城中のあじさいの間にあった襖を払い下げられたのをきっかけに住職があじさいを植えたのが始まりで、時期には境内を埋め尽くすあじさいを見に、沢山の観光客が訪れます。
薄田泣菫:若き日の薄田泣菫が恩師を訪ねて津山に滞在した際長法寺の境内に聳える公孫樹に詩想を得てペンを執った「公孫樹下に立ちて」という長詩が有名です。
田岡嶺雲:津山中学(現津山高校)の教師として東京から赴任してきた田岡嶺雲と伏見町の料亭の「おたい」との悲恋物語が,後の嶺雲の歌に謡われ、別れを告げる長法寺の鐘が登場します。
11 神南備山 古代には、山・巨木・巨石等が信仰の対象として祀られてましたが、その一つに神奈備山信仰が大和朝廷の支配地域に見られます。神奈備型と呼ばれるこの信仰は、古墳時代頃に近畿地方から移住してきた人々が故郷で信仰していた三角・錐形の山に良く似た山を選び祭りを行ったと想像されています。
12 佐良山古墳群 佐良山地区全域に及ぶ山間部、丘陵に点在する古墳は津山市内の5分の1にあたる約200基が造られ、全国でも有名な古墳群です。
その多くは古墳時代後期に集中的に造られました。直径20m以下の小規模な円墳で、一家の家長を埋葬した家族墳と想像されています。
丸山遺跡:古墳時代直前の弥生時代末期の墓地で、埴輪の元になった特殊器台が老人センターの造成中に発見されました。この特殊器台は、吉備王 朝がその支配領域の有力者に分配したものと想像されています。その後も丸山ではこの器台を模したものが造られ有力者の墓地に埋葬されました。
寺山古墳群:約11基の中規模(15m前後)の円墳からなる、竪穴式の石槨(せっかく)を持つ首長古墳群で門の山古墳群と並び佐良山古墳群中で最も古い古墳群です。
門の山古墳群:約18基の小規模(10m前後)の円墳からなる、木槨(もっかく)や竪穴式の石槨を持つ首長古墳で、平成4年に3基発掘調査され、土器・鉄刀・やじり・玉などが発見されました。又これ以前に弥生時代と思われる五角形の墳墓も調査されています。
13 煙硝蔵 江戸時代(1695年)に津山藩主森長成が、古墳を改造して、当時山北村にあった煙硝蔵を移したもので3基あります。1864年にはそのうちの1基で古い火薬を取り出す作業中大爆発がおこったと記録されています。平成13年3月津山市の重要文化財に指定されました。
14 長昌寺跡 天台宗派の寺で比叡山二祖慈覚大師の開基でしたが兵火にあって全焼しました。その後佐良山城主入谷河内守源長昌の手によって復興され、入谷家没落後も寺として存続していましたが、昭和2年頃住職の都合で廃寺となりました。
15 湯池 単純泉の冷泉が湧いています。ここの水が老人福祉センターの方に引かれ沸かされています。
16 佐良神社跡 大正2年に佐良山村の神々(19神)が合祀され現在の佐良神社の地に移されました。今は石碑を残すのみです。
17 カキ谷古墳 昭和61年に、県道押淵・皿線の改修工事に伴い発掘調査された古墳で、古墳時代のものです。6世紀終わりから7世紀にかけて、5回の追葬が行われ、土器・鉄刀・耳環・紡錘車・陶棺などが発掘されました。
18 御駐輦場 1332年(元弘2年)3月17日、後醍醐天皇が隠岐島に流される途中近侍の者より、これより佐良山にさしかかることを聞き、鳳輦を止められ「聞きおきし 久米のさら山越えゆかん 道とはかねて 思いやはせし」の歌を詠まれました。後世種の町内の人々がこの歌を自然石に刻み「御駐輦場」として整備されました。
この後、後醍醐天皇は皿の河原地区の難波家で水を飲まれた史実が伝えられ「立宿」という地名が残されております。
やがて一行は皿川を越え院庄の現在の作楽神社に入られ、有名な児島高徳の話が残されました。
19 洗顔清水 後醍醐天皇が隠岐島に流される際、この湧き水で顔を洗われた事から名づけられたとされています。こんこんと湧き出る水は絶えることはなく、この地区を旱魃から何度も救いました。
20 雲清寺跡  
21 笹山(佐良山)城跡 永正年間に山名氏の武将入谷河内守源長昌の手によって築かれ、その後毛利氏の傘下の肥田左馬助が落とし、更に宇喜田氏傘下の荒神山城主の花房職之が落とし、毛利、宇喜田と転々とし、小早川氏の傘下になって廃城となりました。
22 入谷河内守源長昌の碑 元亀2年(1571年)、荒神山城主花房職之との戦いに敗れ,家臣に背負われ敗走の途中背中に矢を受け息を引き取りました。
その地に昭和34年、高尾町内会有志の手により碑が建てられました。
23 ごんかま ごんかま渕には昔かっぱが住んでいて、月夜には田に上がって来ると人々は怖がっていたという伝説が残っています。またこの渕と、嵯峨渕とが穴で繋がっているという伝説も残されています。ちなみにこの渕にあったごんごの遊び場だった大岩は、皿川改修に伴い撤去されました。(美作地方では河童のことを「ごんご」と呼びます。)
24 中宮古墳群 中宮一号墳は約50年前に発掘調査され、前方後円墳の一種で、ほたて貝式と呼ばれる、ほたて貝の形をした珍しいものです。発掘品は、土器・馬具・鉄器・玉類など多岐にわたり、津山郷土博物館に展示されています。この付近には他にもほたて貝式前方後円墳や、円墳があります。
25 八幡神社碑 織田信長の時代に城が造られ(丸山城)役35年後廃城になり、その跡に京都の岩清水八幡宮の支社が建立されました。そして大正2年佐良神社に合祀され、今は碑が残るのみです。
26 高野山根古墳群 2基の前方後円墳と数基の円墳よりなり、前方後円墳は1号墳が全長32m、2号墳は36mで佐良山古墳群の中で最大です。中宮古墳と並びこの地区の首長の墓です。
27 比丘尼塚 この古墳は剣戸13・14号墳が正式な名称ですが、330年程前キリシタンと共に幕府から弾圧された日蓮宗不受不施派の信徒である佐伯の本久寺の住職日勢聖人がこの古墳を最期の地と定め閉じこもりました。この話が伝わり、建部の4人の女性が共にこの古墳で最期を迎えたことからこの名で呼ばれています。
28 小屋谷古墳群 山に囲まれた小さな谷に、7世紀頃の数基の円墳が発見されました.。その後大雨による山崩れで土器を製作したと思われる窯跡が偶然発見されました。
(さら山ビジョン研究会)