清瀧寺

清瀧寺のお宝住職にお尋ねします。仏教・真言宗Q&A

▲東寺真言宗 清瀧寺本堂(2009.4.12取材)

 清瀧寺は弘仁十二年(821年)人皇五十二代嵯峨天皇の勅旨により弘法大師が開基されたものと伝えられている。

現建物は寛文九年(1669年)時の城主森忠政侯の寄進により再建。本尊は二十七面千手千眼観世音菩薩。作者は行基菩薩と伝えられ、脇仏の持国、増長の二天は弘法大師の寄作とあり。

 美作西国三十三霊場第七番札所 御真言「おん ばざら たらま きりく)

▲入り口

▲仁王門におられます。

▲仁王門におられます。

▲母屋の玄関の花

▲水子子育地蔵尊

 子供の本尊。霊験あらたかな慈愛深いお地蔵様におすがりして信仰を益々深め、広くは険悪になれる世相と人心の「不安、病身、心配事、事故、不幸」を救うと共に、健康、安全、招福、特に子供の幸せ、家運を隆昌ならしめ身心を安楽に幸福な家を得てください。

▲古そうな燈籠です。

▲辨天池(べんてんいけ)

 七福神の紅一点でみめうるわしい女神、辨財天を祭る池。

 すべての人々に愛情と親切な心、幸福を授けてくださいます。

 もとはインドの水の神でもあります。この池は宝永五年(1708年)の作。

御真言

(おん そらそばてい えいそわか)

▲湯汲亭


美作の国七福神

恵比須太神

(航海・漁業・商売繁盛の神様)


清瀧寺

津山市河面330

電話0868-26-1650

▲仁王門

▲仁王門の山号額

山号の墨池山は雨乞いの祈祷をされた大師が自ら筆を洗った池「墨の池」の故事から命名されたとの伝説によるもので、弘法大師のゆかりの古希です。

▲仁王門を観る

▲六地蔵

 六地蔵とは冥界に入る人々を、六道に配するという信仰から通常は墓地の入り口に祀られます。

 六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つです。清瀧寺の六地蔵は中央に大きな延命地蔵、その左右に六地蔵が配されています。

▲十王堂

 釈尊の地蔵十王経によって、唐朝の末期十王の信仰が形成され、人間の死後冥府庁において、生前における罪業を初七日秦皇王に始まり、初江王、五官王、宗帝王、えんま王、変成王、秦山王、都帝王、平等王、五道輪王の三回忌まで裁かれるといわれ日本でも平安朝の末期以後人々の死後の支配をする王として信仰されてきた。

   寛永二年(1705年)建立

▲正面

▲大悲閣(右より)

▲修行大師

▲墨池

▲絵が彫ってあるお地蔵様。

▲鐘楼

▲木造千手観世御菩薩立像

市指定重要文化財(彫刻)
  本尊の千手観音菩薩は、高さ110cmの立像。1000本の手にそれぞれ眼を持ってあられます。普通は42本に略して作られますが、驚くことに清瀧寺の本尊は左右に扇の如く500本ずつの御手が作られている珍しい作例です。

三面のお顔で頭上には27のお顔を載せられている全国にもほとんど例のないお姿です。

秘仏として祀られ、今回学術調査の結果、文化財等の指定に充分値する平安時代中期の優作です。後世の色補修はありますが、保存状態も良好で、全国的にも屈指のすばらしい観音様です。

(二十七面千手千眼観世音菩薩立像)

▲清瀧寺宝篋印塔

市指定重要文化財(石造美術)

 当時は南北朝の動乱の時期であり、天下平隠と物故者の霊を供養するために建てられたものでしょう。

 隅飾りがほぼ直立し、一見して古さが分かる優れた石造美術品です。県下の宝篋印塔の中でも屈指の優品です。

※宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、宝篋印陀羅尼経の教えに従い、経文を書き写して収め、供養した塔をいいます。

 清瀧寺本堂の南東側に位置します。切石を合わせた二重基壇の上に反花座、基礎、塔身、笠、相輪を重ねています。材質は花崗岩製で、総高は1.925mです。上成基壇の側面には「三千部妙典□□」「延文五年庚子三月」「願主沙門祐盛敬白」の銘文があります。
鎌倉時代中期に成立し、江戸時代にかけて盛行したものですが、本例は銘文によって南北時代の延文5年(1360)、僧祐盛により3,000部の経典が納められた供養塔であることがわかります。

▲延命地蔵

▲恵比須大神

▲客殿

▲毘沙門堂

 七福神の内の一人、毘沙門天を祀る。

 別名を多聞天といい四天王の一人で、北方を守護する。釈迦如来の説法を多く聞いている賢い天王で、人々の福徳の願いを多く聞き入れてくださいます。

 インドの神で、もともと戦いを進める勇ましい武運長久の神でありますが、厳しい顔で勇気を与えてくださる福徳の神であります。

・御真言

(おん べいしら まんだや そわか)

・御詠歌(七福神第三番)

  魔を降す 猛き姿にひきかえて 情けにあまる 福徳の神 


墨池山 清瀧寺縁起
 清瀧寺は弘仁12年(821)の開山で、開基は弘法大師と伝えられています。清瀧寺という寺名も弘法大師が唐の長安で修行された寺青龍寺と同じ音です。
 また、山号の墨池山は雨乞いの祈祷をされた大師が自ら筆を洗った池「墨の池」の故事から命名されたとの伝説によるもので、弘法大師のゆかりの古希です。
平安時代の清瀧寺は七堂伽藍が立ち並ぶ大寺院で西光寺、真福寺など七ヶ寺の僧房があったといわれています。
 清瀧寺には伝えられている仏像・本尊の千手観音菩薩像などの文化財の古さからも往時の盛時がしのばれます。
 しかし、中世の戦乱に巻き込まれて寺は次第に荒廃、廃れました。荒れ果てた清瀧寺を復興したのは津山藩の二代藩主森長継です。長継は藩内の多くの寺社を復興していますが、清瀧寺も藩の財政支援で寛文5年(1665)から復興工事が始まり、寛文9年(1669)に本堂が再建されました。
 本尊の千手観音菩薩立像を祀る為、観音堂ともいいます。
各堂宇も享保2年(1717)頃には完成しました。現存する最古の建物は仁王門で、延宝4年(1676)森藩主寺社奉行原十兵衛の尽力で建立されました。仁王門は平成12年に改築修理され、寺域は古刹の趣を回復しています。