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競馬会(くらべうまえ)神事

賀茂競馬に出場する津山市久米の倭文庄の馬が必ず第一番になり、しかも立派な馬装である。

京都市登録無形民族文化財  賀茂競馬(かもくらべうま)

上賀茂神社競馬会

 京都・上賀茂神社では、五月五日、葵祭の前儀としておこなわれている勇壮な競馬会がある。この競馬会が、日本の競馬の発祥といわれている。 競馬は、もともと宮中武徳殿で五月五日の節会に、天下泰平、五穀豊穣の祈願のために催されていた。上賀茂神社の競馬は、1093年に宮中の競馬会式を移したものである。10番20匹の競駆を行う。この競馬料所(競馬に関する費用等を負担する領地)として19国20箇所の荘園を堀河天皇(在位1086〜1106)が寄進したことに始まる。倭文地区(旧旭町も含む倭文庄)もこの頃上賀茂神社の荘園になった。競馬会の一番古い史料は、寿永3年(1184)の源頼朝の下文である。


倭文荘八山城国加茂社(上賀茂神社)ノ神領タルコト久シ本書八源頼朝院宣シ奉シテ下ス所ノ下文ニシテ加茂神社ニ存セリ加茂社競馬ノ名ハ神領各地ノ庄名ヲ以テ之レヲ命シ第一馬ヲ倭文第二馬ヲ金津トナス其次第ヲ列記セハ左ノ如シ(下記)

▲5月1日の足汰式(あしぞろえしき)

馬の足を清める倭文庄の馬。

庁屋での神事に「倭文庄の馬」のみ参加する。

▲5月1日の足汰式の他庄の馬

▲5月1日の馬の歯をみる神事。いつも倭文庄の馬が先頭である。

▲5月5日の組を決めるため1頭だけで走る。


競馬に出場する馬は、毎年競馬料所の荘園から清い馬(野生馬)を一頭ずつが献進されたところから、現在もその荘園の名を負う例である。中でも荘園20箇所第一の倭文庄の馬は重要視され、馬装も他の馬と異なっている。馬装は三位の位の人が使うものである。吉宗の馬が使用しているのと同じである。倭文庄の馬だけがこの馬装なのである。競馬が始まってから千年近く、倭文庄の馬が第一番であり、立派な馬装を続けているのである。しかし、この理由は今の所不明である。

▲賀茂神社競馬(倭文庄の馬)

▲倭文庄の馬の競駆(一頭で走る)

▲倭文庄の馬(馬装が立派)

▲他庄の馬(二頭で走り競走する)


▲倭文庄の馬


倭文地区の史跡マップ

幻の織物、倭文織(しづおり)


一、倭文(美作) 二、金津(加賀) 三、安志(播磨) 四、土田(能登) 五、福田(阿波) 六、脛長(美濃) 七、舟木(近江) 八、宮川(若狭) 九、淡路(淡路) 十、出雲(出雲) 十一、竹原(備前) 其餘九頭ハ定名ナシ毎年祭事ニ当テ競馬ヲ執行セシナリ。


その他の荘園は以下の通りである。 十二、山田(備前) 十三、名島(山城) 十四、由良(丹後) 十五、深日(和泉) 十六、伊保(周防) 十七、菊方(伊予) 十八、玉井(尾張) 十九、星川(伯耆) 二十、小野田(三河)の全部で20箇所である。


賀茂競馬図屏風(オランダ・ライデン国立民族学博物館)は、狩野董川中信(かのうとうせんなかのぶ)筆・安政3(1856)年二頭の馬が疾走する本番勝負・背景には、御手洗川を配している。

オランダから贈られた蒸気船に対する返礼品

安政2(1855)年、オランダ国王ウィレム3世は、幕府にオランダの画家ピーネマン描くところの自らの肖像画と蒸気船(日本名・観光丸)を贈っている。

幕府はその返礼として、翌年、オランダ国王に屏風10双などを贈っている。賀茂競馬図屏風はその中の1点である。

狩野董川中信(かのうとうせんなかのぶ)は、当時の狩野一門を代表する絵師であり、屏風10双を制作する責任者であった。


賀茂競馬図屏風(アメリカ・クリーヴランド美術館)(江戸時代・17世紀)

賀茂競馬は、上賀茂神社における神事であり、平安時代における公家の年中行事であったが中絶し、応仁の乱後、再興され人気を博した。端午の節句の景物として近世初期を中心に障屏画に盛んに描かれた。

上賀茂神社の神苑や社殿が描かれている。

2009.07.17編集  資料提供:歴史と文化を語る会(筒塩泰崇)