トップ本源禅寺について座禅体験レポート貴重な文化財取材時のこぼればなし

◎森家御霊屋(方四間御霊屋)

御霊屋は本堂の西側にあり、忠政公をはじめ、森家と関家、松平家、全29基の御霊碑が安置されています。
御霊屋にある忠政公のお位牌は165cmあり、なぜか2代長継公(関成次)の父の位牌は忠政公のお位牌よりも高いそうです。そのことから位牌の高さは忠政公の実寸だったのでは?と言われています。

■本源院(森忠政公の五輪塔)

高さ約5m×幅3.3m
全7基中最も大きい。

   

■雄心院(森長可の五輪塔)

忠政公の次兄、森武蔵守長可公の供養
長可公は、織田信長に仕え多くの戦功を上げる。 一騎で雑兵1000人に値すると恐れられ鬼武蔵として勇名を天下に馳せる。天正12(1584)年、小牧の役で羽柴秀吉に従い、長久手の合戦で徳川家康に対して奮戦し、鬼武蔵の面目を発揮するも池田恒興、之助親子と共に武運拙く27歳で戦死。長可公の妻は恒興の娘。

   

■霊光院(森忠継の五輪塔)

津山の石はもろいため、この塔の石は他から運ばれた
一番高価なお墓と言われています。

   

■知勝院(森忠政公奥方の五輪塔)

慶長12年に33歳で逝去された公奥方の
智勝院殿(於岩)の墓。
名護屋氏の娘で、羽柴秀長の養女。

■御霊屋の中を拝見しよう!


7月7日は、津山藩初代藩主、本源寺開基 森忠政公の御命日です。忠政公は京都上洛の際に桃の食害で亡くなったと伝えられており、本源禅寺でも忠政公に桃をお供えしないことになっているそうです。この忠政公の急逝は美作の人々にも大きな衝撃を与えました。当時津山から桃園がなくなったとも言われ、美作で7月7日に七夕祭りが行われないのもそのためだと言われています。
忠政公没後250年には大規模な御霊屋修繕がおこなわれましたが、この時には美作近隣からなんと5万人もの人が列をなしてお参りに訪れたというのですから、津山の城と町を創った忠政公の菩提寺である本源禅寺を守りたいという美作の人々の強い気持ちが伝わってきます。
その忠政公の御位牌が眠る御霊屋の扉が一年に一度、忠政公の命日の頃に開きます。普段は見ることのできない貴重な品が解放されますので、是非お参りに行ってみましょう。


◎本堂に残る貴重な文化財、「六葉の釘隠し」
本堂の奥に驚くべき森家ゆかりの貴重な文化財がありました。積み重ねた時を物語るように黒く光る六葉の釘隠しには森家の家紋である鶴があしらわれています。森家の菩提寺であった時にはすべてこの釘隠しが使用されていたようです。しかし、藩主が松平家に代わってからは別のものに差し替えられたのでしょう。
奥の部屋にひっそりと4つが残るのみとなってしまったそうです。この釘隠しと同じ物が当時の津山城にも使用されていたとみられ、備中櫓再建の際に見本として貸し出されたそうです。
また、庫裏にある韋駄天像(いだてん ぞう)は、二世大梅禅師の作を七世列堂禅師が壊してしまったことを畏れて、自ら韋駄天像を作り体内に納め「新古不二 分身一体 両輪後推 長 護千年」と銘して安置したものだそうです。
本源禅寺の鎮守は弁才天、本堂には御本尊に釈迦牟尼仏、右に達磨大師、左に木像森忠政公像〔(1631)作、公62歳の寿像〕が祀られています。本堂自体も建立当時の柱が残り、400年前の瓦やかまどなど見所がたくさんあります。
本堂と、庫裡、森忠政公像が津山市指定文化財、御霊屋と御成門、大名墓7基が県の文化財に指定されており、現在の23世住職まで大切に守っておられます。

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