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西美濃屋小路
美濃屋弥次郎の屋敷があったこと
から名付けられました。森忠政と
一緒に美濃から移住してきたと思
われます。どんな商いをしていた
かは不明です。
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美須屋小路
簾屋七郎兵衛の屋敷があったこと
から名付けられました。簾(すだれ)を販売していたと思われます。
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国信小路
矢師 国信九郎左衛門宅に通じるということから名付けられました。津山藩弓矢生産の総元締めか、弓矢職人のまとめ役と思われます。
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関貫小路
津山森藩の時代、宮川大橋西詰と
翁橋東詰の二箇所に大番所が設置
されました。(延宝6年)。この
大番所の近傍に関貫(木戸・自身
番)を設け、往来の取締りと治安
の維持にあたりました(城下に54
箇所)。この小路の少し東側に関
貫があったことからこの名前がつ
きました。
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栴檀小路
栴檀の木が小路沿いに植えられて
いたことから名付けられたと考え
られます。栴檀の木は高木になり、果実はひび薬、樹木は仏像・木魚
・香の材料・家具など用途が広い
木です。「栴檀は双葉より芳し」
の諺があります。
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長柄小路
慶長8年森忠政が入封のとき、新面喜左衛門が鍬の柄100挺を献進したとの記録が残ります。当時貴重品だった槍の柄、鍬の柄そして天秤棒などを生産していた地区としてこの名が残ります。当時は脇町、裏町が職人町でした。
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松木小路
北側の上之町に長松寺があり、香
寅寺と共に現在の千光寺に併合さ
れました。この寺の松の木が名前
に由来しているのではないかと考
えられます。別名松の木小路とも
いいます。
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福田屋小路
福田屋吉右衛門の屋敷があったこ
とからなづけられました。福田屋
が何を商っていたかは不明です。
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藺田小路
城東地区の町づくりが行われた当初は、上之町一帯に水田があり、藺草も栽培されていました。これがこの小路の名前の由来となりました。藺草は畳表、花筵などに加工され重宝されました。また芯の白い髄はランプや行灯の燈芯にも用いられ、別名燈芯草ともいいます。
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札場小路
「掟」や「定」などを公示する高
札場があったことから名付けられ
ました。当時の「定」には次のよ
うなものがあります。 「万年お
ごり致すべからず。屋作、衣服、
飲食に及ぶまで倹約を相守べきこ
と。出雲街道を東から城下に入る
人々は必ず目を通す所に掲げてあ
りました。
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大隅小路
上之町にある大隅神社の参道であ
ることから、この名前がつけられ
ました。
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東美濃屋小路
美濃屋与治右衛門の屋敷があったことから、この名前が付きました。西美濃屋小路に店を構えた美濃屋弥次郎と同じく、美濃からやって来たと思われますが、何を商っていたか、与治右衛門とどういう関係だったかはわかりません。
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瓦屋小路
森忠政が入封のとき、美濃から瓦
師の赤染部一族が移住し、上之町
一帯の良質な粘土を使用して津山
城の瓦を制作しました。その工場
や屋敷がこの地にあったことから、瓦屋小路と名付けられました。
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