ただいま6月22日に発生したサーバ障害の影響で一部コンテンツを正常に閲覧できなくなっています。皆様にご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございません。

津山郷土博物館No3

津山郷土博物館1F津山郷土博物館2F津山郷土博物館3F|その他、つやま自然のふしぎ館歴史民族館は、お得なセット料金になっております。

▲籠の中

この乗物は、津山松平藩主が参勤交代の道中に用いたもの。かごの一種であるが、大名など身分の高い者が使用した。乗ったままで軽い食事や読書などしていたものと思われる。

▲津山松平藩主所用乗物(重量は約60kgあり、これを4人でかついだ。)

▲甲冑

旧津山藩士黒田家伝来(江戸時代)

▲町の生活

町の生活  津山城下には町人の住む町が33あり、鍛冶屋・桶屋・髪結・古道具屋、豆腐屋・魚屋・酒屋等さまざまな商工業を営むもの、医師や神官、農村に出かけて農業に従事するものなどが生活していた。  彼らは地子(租税)を免ぜられていたが、堀や溝の掃除、町役人(大年寄・町年寄など)が職務に必要な経費を支払い、また出火・洪水の際には防火・水防の人足に出る義務を負っていた。

▲龍吐水

江戸時代の火消道具。

▲岡山県指定重要文化財「熊毛槍」(江戸時代後期)

▲竹林図

広瀬台山筆(襖4面)


津山は、古代から近世まで一貫して美作(みまさか)の政治・経済・文化の中心地として繁栄してきました。津山郷土博物館は、このように古い歴史をもつ美作の歴史や文化を紹介する市立の歴史博物館です。

7つの大テーマを設け、地質時代から現代までの歩みを通史的に展示しています。

主な展示資料に、1500万年前の奇獣パレオパラドキシアの骨格復元模型、古墳時代の美作を特徴づける陶棺(とうかん)の立体展示、縮尺150分の1による津山城の精密復元模型、津山藩主松平家所用の輿(こし)、駕籠(かご)などがあり、ビデオやイラストを交えて、わかりやすく親しみやすい展示内容にしています。建物は昭和9年に落成した旧津山市庁舎を整備したもので、昭和63年4月に開館しました。

▲津山景観図屏風右隻(津山市指定重要文化財)

鍬形蕙斎は津山藩の家臣となった後、お抱え絵師として職務を果たす傍らで、様々な人物の様態や鳥獣魚貝などを、簡略化された筆致で描いた「略画式」シリーズや、傑出した江戸の鳥瞰図として著名な「江戸一目図」、様々な職業の人々を軽妙に描いた「近世職人尽絵詞」など、多くの傑作を残している。文政7年(1824)没。

▲津山景観図屏風左隻 

春の二宮  第一扇の下方に描かれる広瀬橋は、津山城下と備前とを結ぶ備前往来に続く橋で、その名はこの付近の瀬に付けられた広瀬という名に由来している。浅瀬に細かく波立つ様子が描かれ、今津屋橋付近の水量のある流れとは、明らかに描き分けられているのである。  第二扇の松原が始まるところには、紫竹川に架かる筋違橋が見える。第二扇から第四扇にかけて、みごとな松並木が描かれ、高野神社の森に続く、参道の大鳥居に覆い披さるように見える大木は、宇那提森のムクノキであろう。樹齢700年といわれている。鳥居の奥には随身門がある。ここには、平安時代末期に製作された木造随身像一対が安置されていた。現在その随身像は、国指定の重要文化財として管理されている。  高野神社の左手には、吉井川に衝きだした岩場があり、二人の人物が川をのぞき込んでいるように見える。ここは天王ヶ鼻と呼ばれ、吉井川が突き当たり、流れを変えている。 第五扇中央付近には、かすかに清眼寺の瓦屋根と、院庄の古跡が見える。院庄は、後醍醐天皇と児島高徳の伝承で知られる場所で、貞享5年、森家の重臣長尾勝明が石碑を建立した。第六扇の吉井川の対岸には、古来の歌枕といわれる嵯峨山が、その存在感を示している。


久原濤子  彫刻家(1906-1994) 1906年、津山市二階町に生まれる。  彫刻家北村西望に師事し、1931年帝国美術院展覧会(帝展)において、女性として初めての入選を果たす。その後、文部省美術展覧会(新文展)、日本美術展覧会(日展)などで活躍。  1955年に完成した長崎の平和祈念像制作には、北村西望の助手のひとりとして参加。  津山市に帰郷後は、二階町のアトリエで制作を続け、「箕作阮甫」や「わんてえか」など、津山市ゆかりの作品を多く残した。それらは市内各所の設置され今も市民に親しまれている。


安東次男(あんどうつぐお) 大正8年(1919)生~平成14年(2002)没 津山市沼生まれ。詩人、俳人、フランス文学翻訳者。東京外国語大学フランス文学教授。古美術・芭蕉・蕪村の評論。代表作、詩集「六月のみどりの夜は」「蘭」「カランドリエ」。エッチングの駒井哲郎との共作「人それを呼んで反歌という」。句集「流」(詩歌文学館賞)。「澱河歌の周辺」(読売文学賞)、「与謝蕪村」「芭蕉七部集評釈」(芸術選奨文部大臣賞)、「藤原定家」など多数。


駒井哲郎 大正9年(1920)生~昭和51年(1976)没 東京・日本橋、魚河岸の氷問屋の富裕な家に生まれる。東京美術学校卒。銅版画家。東京芸術大学教授。サンパウロビエンナーレ展、ルガノ国際版画展で受賞。日本を代表する国際作家となる。安東次男や大岡信と交流、安東とのコラボレーションによる詩画集「からんどりえ」(1960年)は日本初。生涯にわたりエッチングを制作し、モノクロームの世界で自己の内面、幻想、夢などを表現し続けた。日本ではマイナーな分野であった銅版画の普及と地位向上に貢献した作家として高く評価されている。


▲津山市南新座の斎藤家(西東三鬼、本名「斎藤敬直」の生家とされている)

父の死後は、この家に母と二人で暮らした。この家は、周囲の様子はすっかり変わっているが、現在もある。

▲安東次男(左)と西東三鬼(右)

昭和24年、寝屋川の香里園に住む三鬼を安東次男は卵(父親が鶏を飼っていた)を持って訪ねた。「文学の話は一切せず、もっぱら津山の話ばかりした」(安東次男談)

▲右端が三鬼。「赤道直下の乳香と没薬の国」シンガポール時代。三鬼は、大正14年(1925)歯科医専卒業後、同年12月長兄の任地、シンガポールに渡り開業。昼はゴルフ、夜は中東地方の友人と交遊。チフスに罹り、また反日運動も起こって、昭和3年(1928)帰国。

▲西東三鬼資料展

▲ 俳句雑誌「京大俳句」 昭和8年1月、平畑静塔らによって創刊。俳句革新運動の拠点となる。昭和15年2月、警察当局に「危険思想」の俳句として、平畑ほか逮捕され、終刊(京大俳句事件)。8月、三鬼も逮捕され、以後5年間執筆禁止。もともと京都大学の学内誌であったが、すぐに一般に開放され、三鬼はこれを本拠にして活発な作句活動を展開していた。

▲俳句雑誌

▲三鬼の愛用品

▲久原濤子の彫刻

▲河井達海の油絵

洋画家(明治38年~平成8年)

津山市上之町生まれ、昭和24年大阪学芸大学教授(大阪教育大学)。昭和43~44年西欧諸国歴訪。昭和46年退官、同大学名誉教授。昭和48年大阪文化芸術功労賞受賞。昭和51年勲二等瑞宝章叙勲。平成8年3月没。

▲赤松麟作の絵「渓流」

津山出身の画家、赤松麟作の絵「夜汽車」(明治34年作、東京芸大所蔵)は有名です。

▲安東次男

▲安東次男(詩)・駒井哲郎(エッチング)

▲詩画集「からんどりえ」

▲詩画集「からんどりえ」