城東昔町家(箕作邸)

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▲箕作阮甫旧宅【無料】
幕末に活躍した洋学者箕作阮甫の生まれ育った家です。当時の町家がそのままの雰囲気で解体復元されています。町医者であった箕作阮甫の旧宅は、よく江戸時代の姿をとどめているとして国の重要指定史跡となり、再整備され公開されています。


箕作家のルーツ

近江源氏の一族で、佐々木姓を名乗り、平安末期から戦国時代の終わりまで、守護・戦国大名として近江一帯を治めていた。

室町時代に佐々木22代高頼の子で箕作山(現滋賀県五箇荘町)の城主であった定頼が箕作氏を名乗ったことにより、箕作家は始まる。


阮甫は寛政11年(1799)松平藩5代康哉(やすちか)の時、西新町旧宅で生まれ14歳まで過ごした。

12歳=兄豊順が亡くなった為、家督を継ぐ。(箕作7代)1810(文化7)

17歳=藩儒永田桐陰に漢学を学ぶ。1815(文化12)

18歳=京都で竹中文輔のもとで医学を修業。1816(文化13)

21歳=津山藩儒医、大村家のとゐと結婚。1821(文政4)

22歳=藩主、松平斉孝(7代)に従って江戸を出る。津山藩(江戸詰)の侍医宇田川玄真の門に入って洋学を学ぶ。1823(文政6)

33歳=江戸詰となり妻子とともに江戸へ移る。以後江戸で活躍する。1831(天保2)

40歳=幕府天文台に出役し「蕃書和解御用」に携わる。1839(天保10)

55歳=アメリカ合衆国使節ペリーが浦賀に来航、同年ロシア使節プチャーチンが長崎に来航時には、外交文書の翻訳に携わり、養子の箕作秋坪、ジョン万次郎、村田歳六などと共に活躍する。1853(嘉永6)

58歳=幕府「蕃書調所」の教授となる。蕃書調所が現在の東京大学の前身であることから、阮甫は日本最初の大学教授と称される。1856(安政3)

60歳=神田お玉が池に「種痘館」を開設。のち東京大学医学部へと発展する。1858(安政5)

64歳=洋学者として始めて幕臣に列せられる。1862(文久2)

65歳=湯島天神中坂下で没した。明治維新の5年前のことである。1863(文久3)

▲箕作家も津山藩の医者でした。阮甫は西新町で生まれ、江戸へ出て宇田川玄真について洋学を学びました。

洋学の翻訳にも力を注ぎ著書や訳書がたくさんあります。

我が国最初の医学雑誌を発行したり、オランダ語の文法書を発行して学問の発展に貢献しました。


阮甫は生涯一医者にとどまらず、経済・天文・法学・地理・物理・兵学など洋学者として、広く学問を修め、幕府の外交政策等にかかわり、近代日本の文明開化の先がけとなった一人で多くの業績を残した。

まさに郷土の誇りである。勿論日本の誇りでもある。

▲ 箕作阮甫

(みつくりげんぽ)


神崎与五郎と箕作家は親類...エピソード

延宝6年(1678)与五郎が14歳の時、従弟の箕作十兵衛と一緒に津山の町を歩いていたら、かねてから十兵衛を恨んでいた少年が、いきなり小刀で十兵衛の顔を切りつけて逃げた。

与五郎は大いに怒り、追いかけて切り倒した。時の人々はその勇敢で俊敏な働きを賞賛した。

十兵衛は、後に貞弁と称し西新町で医業を開いた。阮甫の曽祖父である。神崎与五郎はのち赤穂義士となる。


神崎与五郎のこと

与五郎は、寛文6年(1666)津山城下の生まれで、津山藩士として森家に仕えたが、4代長成の時改易となり、その後赤穂藩に仕えた。5年後の元禄15年(1702)の吉良邸討ち入りに参加し、半弓を手に華々しく闘い、翌年江戸の岡崎藩主水野忠之の屋敷で自刃した。享年38歳であった。


与五郎の生母の墓は西寺町「愛染寺」にある。徳森神社には、討ち入り前に詠った歌碑が建っています。「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」赤穂四十七士と言えば、他に美作の地から参加した芳野和助(河辺)と横川勘兵(美作)がいます。


津山と赤穂とは因縁が深く、浅野家断絶のあと、森家2代藩主長綱の子長直が宝永3年(1706)赤穂森家として入り(2万石)明治の廃藩置県まで続きました。

▲奥の間

▲居間にある、

▲台所のかまど

通り庭式の土間には大きな曲土(くど「かまど」)があり、煙り出しと明り取りを兼ねた「無双窓」があります。

▲資料館

▲資料館内部

▲資料館天井

▲昔は、この石を支柱にして、足で漕ぎながら、お米や麦などをひいていたものらしい。箕作家にあったのは、漢方薬を作るのに使用されたのもではないかとの話もある。


津山市西新町6番地 

電話/0868-31-1346

開館時間/9:30〜16:30
休館日/月曜日(月曜日が祝祭日の時は木曜日が振替休日)H24年5月より

▲土間・台所(中庭に続く)

▲中庭にある井戸

▲中庭

▲檜皮(ひわだ)を張り付け、屋根裏は、竹をつるで巻きつけた「竹すのこ張り」という大変めずらしい構造になっています。

▲中庭の縁側

▲津山城の瓦

津山城は今から約130年前、明治6年(1873)の廃条令により、全ての建造物は取り除かれました。この瓦は4.6×3.2、2.2×2.8cmと大変大きなものです。瓦屋小路の瓦師赤染部家で作られたものです。西新町在住の竹内鶴一さん宅で発見されました。町家の瓦と比べて見てください。(平成16年5月)

▲昔のトイレ