本源禅寺「津山市の寺巡り・観光」

本堂庫裏中門御霊屋霊屋表門が国、大名墓七基が県、森忠政公像が市の指定文化財です。

東海山「本源禅寺」津山藩初代藩主森忠政公が開基したものである。

▲東海山 本源禅寺

 興国元年(1340)南北朝の頃、夢窓国師の発起に依り足利尊氏が国家安全を祈願して、属国66ヶ所、島2ヶ所に安国寺を造営する。当寺は、旧西々条郡神戸村(現津山市神戸)に創建された美作国安国寺の後身で、現在は臨済宗妙心寺派の禅寺である。

 当山開基は、津山藩初代藩主森忠政公である。忠政公は、清和源氏八幡太郎義家の後裔で、織田信長の忠臣美濃金山城主森可成の六男として、元亀元年(1570)に兼山で生まれる。
  忠政公誕生と同年の4月に信長の朝倉攻めに際し、越前国手筒山にて長男可隆(19歳)が、9月に浅井、朝倉軍に敗れ父可成(48歳)が相次いで戦死した為、次兄長可が森家の家督を継ぐ。天正10年(1582)本能寺の変で織田信長と共に、三男乱丸(18歳)、四男坊丸(17歳)、五男力丸(16歳)が戦死する。信長の死後、森家は羽柴秀吉に付く。天正12年、長久手の合戦で長可(27歳)が戦死し、六男の忠政公が15歳にして父と五人の兄を亡くし兼山城主となり家督を継ぐ事となる。

 秀吉に仕え信頼を得た忠政公は、羽柴の姓を賜る。秀吉亡き後、徳川家康の信頼を得て、慶長五年(1600)に美濃兼山七万石から、次兄長可の旧領(信長が武田家を滅ぼした時、褒美として長可に与えられた地)信濃川中島の埴科、更級、高井、水内四郡137,500石に封ぜられた。そして、関が原の功績により慶長8年(1603)2月6日、家康が将軍となる6日前、34歳の時に美作一国186,500石を徳川秀忠より拝領する。

 忠政公は美作国主として入封、ひとまず院庄に入り、城地の選定をし、翌9年に院庄を出て鶴山に築城を開始する。同じ頃、院庄の近く(神戸村)にあった安国寺を菩提所となさんと欲して之を小田中村に移し、海晏禅師を迎えて安国寺中興の祖としました。
  三年後、之を西今町の北(現在地)に移し「萬松山龍雲寺」と改名する。海晏禅師筆の龍雲寺本堂棟札に「慶長12年11月、津山城主羽柴忠政公が城より西へ数十町の処に龍雲禅寺を草創」とあり、城の真西にあたる現在地に移したようである。忠政公は慶長9年に鶴山を「津山」と改めており、この本源禅寺の棟札が津山という地名使用最古の例とされている。

2009.1月取材

▲「禁葷酒」

これより臭い物(ねぎ、にんにくetc)と酒を持ち込んではいけないと言う意味だそうです。


 江戸幕府が開かれたとはいえ大阪の陣の前でもあり、戦国の熱さめやらぬこの時期、より戦を念頭に置いた城造りと城下町造りが始まる。津山城は五層の天守を始め、77を数える櫓、40近い城門など百数十の建築物がひしめく壮麗な城で、12年かけて完成した。  城下の町造りも城下防衛上の理由から、寺院を城の東西に集中させ寺町を形成した。18世紀初頭には、城の西に24ヶ寺、東に10ヶ寺と圧倒的に西に寺院が多い。また、津山城の五層の天守も西を見渡せるように建っており、城下防衛は西側に重点が置かれていた。

▲山門

▲山門にある「東海山」の山号の額

▲本堂前の庭

▲駐車場から観る本堂

▲庫裏(くり)

▲総門

▲本通りのまがり角は「本源寺口」と言われていたそうです。

▲指定文化財

▲釣鐘はありません。

▲御成り玄関

 寛永11年(1634)7月7日に京都で忠政公は急死し(65歳)、船岡山の麓で火葬後、大徳寺三玄院(1589年に、石田三成、浅野幸長、森忠政公の三人が建立)に葬られた。

 忠政公の突然の死は美作の人々に大きな衝撃を与えた。この日は七夕祭りに当たるため、美作ではこの忌日をさけて七夕祭りを行うようになったと伝えられている。「桃」の食害で?亡くなられたとも言われており、当山では、忠政公に桃はお供えしないという事になっている。同年8月3日に、二代藩主長継公は二条城に登城し遺領相続を認められる。

 延宝2年(1674)長継公嫡男忠継公逝去、龍雲寺の葬る。同年、長継公隠居し、忠継公嫡男長成公当時4歳幼年故、叔父の長武公が長成公16歳の元服までの12年間藩主となる。

 天和3年(1683)忠政公の50遠年忌に当たり御戒名「本源院殿前作州太守先翁宗進大居士」から、寺名を「龍雲寺」かた「本源寺」に改める。

本堂の中


本堂の中にあるこの絵には心引かれるものがあります。住職にお聞きすると、おそらく明治に入ってから書かれた絵では?とのことでした。


 本堂には御本尊に釈迦牟尼仏、右に達磨大師、左に木像森忠政公像〔(1631)作で、公62歳の寿像〕を祀る。鎮守は弁才天。庫裏の韋駄天像(いだてんぞう)は、二世大梅禅師の作を七世列堂禅師が毀損(きそん)せしことを畏れ(おそれ)、自ら韋駄天像を作り体内に納め「新古不二 分身一体 両輪後推 長護千年」と銘して安置す。

▲庫裏の玄関から入る。

▲玄関先にあったかまど

▲この太鼓は年代が分からないそうです。

▲このコタツは本堂の下から出てきたものだそうです。

▲あ、うんと揃っていた筈

▲面白い鯱です。

あ、うんがあるとのこと。歯が出ているのと、出てないもの。

▲うろこのはっきりした、鯱です。(こちらの方が古い)

▲本堂

▲駕籠が吊り下げてありました。

▲400年前の本堂の鬼瓦

▲卍入りの瓦

▲「おそらく壊した時のもの」だそうです。

縁起の良いかめもおります。

▲本堂に上がっていた鯱(しゃちほこ)

▲森家の鶴の紋入り瓦

この鶴も「あ」(口を開けたもの)と「うん」(口を閉めたもの)の二種類があるそうです。

▲徳川の紋入り瓦

▲これは何処に飾ってあったものでしょうか?

いずれも面白い瓦たちが拝見できます。

▲随分古そうです。

▲伊藤明瑞(いとうめいずい)明治22年2月奈良県生。

書に秀で、神童と言われる。5歳のとき明治天皇の前で揮毫する。明治の瑞才であると誉えられ伊藤博文の姓を受け、伊藤明瑞の名を賜った。享年59歳。この書は12歳の時のもの。

▲木の釘が打ちつけられています。それを隠すためにあるのが、下の六葉の釘隠しです。

▲鶴をあしらった六葉の釘隠し。本源寺本堂の奥にある部屋に4つ程あるそうです。おそらく、松平家になった時に鶴の模様の無いものが表に飾られたのではとのこと。

▲右は備中櫓を復元時、京都の業者から贈られたもの。

▲ぼたんの花のつぼみ文様があります。

▲ぼたんの花が咲いた文様があります。

▲森家の鶴の紋入り瓦。当初、森家御霊屋に使われていた。

▲この瓦は三部の分かれて組み立てられているそうです。(これは月)元文4年(1739)の本堂鬼瓦

▲鬼瓦(これは太陽)

 貞享3年(1686)長成公は四代藩主となる。この頃五代将軍綱吉が「生類憐れみの令」を政策(1709年廃止)、長成公は元禄8年(1695)武蔵児玉郡中野村(現在東京都中野区)に、御犬小屋普請を仰せ付かる。大変な労力と借金の末、無事期日内に完成させた。
  2年後の元禄10年(1697)6月に、長成公(27歳)逝去。二代藩主長継の九男関衆利が、長成公の養子として認められるも同年7月、重病に倒れ、跡目相続不能となり、津山藩森家は改易となる。改易後、森家は赤穂藩森家・三日月藩森家・新見藩関家の三家に分かれる。
  当山は、森家四代95年間の時代、寺領を寛永3年に百石、寛文9年に二百石を領し、総門から中門までの参道両側は蓮池や松林のある庭であった。(現在は農地改革により失う)
  津山藩主が松平家十万石に代わった後、寺領は藩財政の事情もあり減ぜられるも泰安寺、妙法寺とあわせ津山三箇寺と称して諸寺の上におかれ、以後は森家・津山藩松平家両家の庇護を受け明治を迎える。

森家御霊屋(方四間御霊屋)

 本堂西の御霊屋(おたまや)は、忠政公逝去の5年後の寛永16年(1639)に、二代長継公の建立。忠政公をはじめ二代長継、三代長武、四代長成、父可成、兄長可、乱丸、坊丸、力丸、忠政公奥方、子息、息女など、森家と関家と松平家、全29柱の御霊碑を安置す。(本源寺は津山城の真西にあります。)


 萬松山龍雲寺創建は海晏禅師ですが、天倫禅師に譲り、開山(初代)は天倫玄節禅師となる。その後、海晏禅師は、慶長14年に伊達政宗の拝請に応じて松島の瑞巌寺96世となる。

 天倫禅師により元和年間に山号を東海山と改める。

 第4世藍岫和尚は妙心184世、

 5世夢堂和尚の代に本源寺となる。妙心246世。

 7世列堂和尚は、互室軒喫茶集全十数巻を記す。

 11世神宗和尚は、白隠禅師門下の三頓の一。

 16世神嶺和尚は、明治維新後津山市中に呼びかけ、有志により報恩会を結成し護寺に尽力す。

 現在の住職が23世。


 7月7日は、津山藩初代藩主、本源寺開基森忠政の御命日です。毎年この日に年に一度の御霊屋の扉を開けますので、皆様どうぞお参りにお出でください。

▲忠政公の台座の前は1枚石で造られている。

▲中を調べたら、長尾勝明が「父の為に建てた」と書いた石柱があったそうです。それが前の石柱です。

▲こちらは長尾勝明が「忠政公の為に」と書かれていたそうです。

▲鞍懸寅二郎の墓


 

▲御霊屋へ入る(一間平唐門)

▲門の模様が細かい

▲水盤

▲御霊屋には、忠政のお位牌があるのですが、155cmあり、2代長継(関成次)の父の位牌はそれよりも高いそうです。この位牌が忠政公の実寸だったのでは?と言われているとか。

▲本堂へ続く廊下

▲本源院(森忠政公の五輪塔)

高さ約5m、幅3.3m、全7基中一番大きい。

▲知勝院(森忠政公奥方の五輪塔)

慶長12年に33歳で逝去された公奥方の智勝院殿(於岩)の墓。

名護屋氏の娘で、羽柴秀長の養女。

▲大小7基の五輪塔

▲雄心院(森長可の五輪塔)

忠政公の次兄、森武蔵守長可公の供養

 長可公は、織田信長に仕え多くの戦功を上げる。

 一騎で雑兵1000人に値すると恐れられ鬼武蔵として勇名を天下に馳せる。天正12(1584)年、小牧の役で羽柴秀吉に従い、長久手の合戦で徳川家康に対して奮戦し、鬼武蔵の面目を発揮するも池田恒興、之助親子と共に武運拙く27歳で戦死。長可公の妻は恒興の娘。

▲霊光院(森忠継の五輪塔)

この塔の石は他から運ばれて来ていて、一番高価なお墓と言われています。

津山の石はもろいのだそうです。

▲碧松院(森可成の娘、忠政の姉、二代目長継の祖母の五輪塔)

▲光徳院(関民部成次の五輪塔)

台座の前と左側が1枚石です。

▲晃晶院(忠政公娘の五輪塔)

 本源禅寺さんでは、住職が居られるときには、座禅が無料で組めるそうです。そして、森家の詳しいお話や本堂のお宝拝見もできます。


◆問い合わせ  / 津山市小田中1373番地  電話0868-22-7351
拝観料 / 200円