棟方志功(資料参照)は明治36(1903)年に青森に生まれる。18歳(大正10(1931)年)のとき「わだばゴッホになる。」と画家を志し、21歳(大正13(1924)年)の9月に上京するが、4年後にやっと帝展に入選を果たす。
29歳(昭和7(1932)年)で日本版画協会に推挙され、5月に第7回国画会展に版画を出品、国画会奨励賞を受賞した。
30歳(昭和8(1933)年)のとき棟方志功版画集を刊行、33歳(昭和11(1936)年)で第11回国画会展に『大和し美し』を出品し、民芸の提唱者柳宗悦(ムネヨシ)・河井寛次郎・濱田庄司らの知遇を得る。
35歳(昭和13(1938)年)のとき、善知鳥版画巻(ウトウハンガカン)を帝展に出品し特選となる。昭和14(1939)年36歳で釈迦十大弟子を制作、37歳の昭和15(1940)年に第15回国画会展に『阿伝譜・二菩薩釈迦十大弟子版画屏風』を出品し佐分賞を受賞する。
昭和17(1942)年11月に39歳で最初の文集『板散華』を刊行し、このときから「版画」を「板画」と書く。
42歳4月(昭和20(1945)年)富山県西砺波郡福光町に戦争疎開するが、5月25日の東京大空襲で代々木山谷の家を焼失し板木のほとんどを失う。 たまたま福光町への荷造り用として使った『十大弟子』の板木5枚は、焼失を免れている。福光町では、42歳(昭和20(1945)年4月)から48歳(昭和26(1951)年11月25日)までの6年7ヶ月間家族と生活し数々の作品を制作し残している。
昭和30(1955)年サンパウロ・ビエンナーレ展で『釈迦十大弟子』『湧然する女者達々』などにより最高賞を受賞、翌昭和31(1956)年ヴェニス・ビエンナーレ展で『柳緑花紅頌』などにより国際版画大賞を受け、「世界のムナカタ」になる。
昭和23(1948)年に初めて志功は津山方面に旅行する。
柳井道弘(資料参照)に案内され、津山市椿高下の晴山御殿(当時進駐軍のクラブとして使用されていた)に宿泊。 美作在住の若き芸術家たち(河野磐、庄野、山田昭雲)と宴会し、大いなる楽しい時間を過ごす。この後、度々津山を訪れることとなる。
柳井道弘(三千比呂)は大正11(1922)年に苫田郡(現鏡野町)上斎原に生まれ、岡山一中を卒業後萩原朔太郎に師事するため明治大学に入学した。後に朔太郎の縁もあり日本浪漫派の大家である保田與重郎の弟子となり、大学生の時から見知ってもらっていた棟方志功とは、與重郎を介していよいよ深く長く実の息子のように行動を共にした。 その後「花鎮頌」をはじめ詩集・小説・随筆等数々の作品を残している。
河野磐が画集『野よ、山よ、海よ、旅よ』に画いているように(資料1)、「・・・もしかしたら、棟方志功は美作の地(上斎原)を生涯の拠点としたことだろう。」
棟方志功の正書のひとつ、長女けようの婿 宇賀田達雄著『祈りの人、棟方志功』にも、「津山行きは昭和27年1月15日、山陰地方を廻ってそのあと、岡山県那伎(ママ)山下の日本原開拓団を訪ね、保田與重郎門下の柳井三千比呂家に二泊云々」と書かれているのみで、津山方面への旅は棟方研究ではあまり識られていないようである。ましてや津山の人々の間では、「奥津に志功の作品が多く残っているのは志功が温泉に泊まりに来たから」程度のことしか知りえてないのが現実である。
津山の人々は大文豪、谷崎潤一郎が疎開し、名作『細雪』を津山で執筆したと勘違いしているのではないだろうか。 本当は、食べる事に大変苦労して嫌になり勝山に移ったのが事実で、津山の人々は谷崎を助けることができなかった。谷崎は津山を大嫌いになってしまったのだが、これも戦中のことだからとして片付けているようである。
数年前、津山朝日新聞(夕刊)に谷崎と津山とのかかわりを書かれた方がいらっしゃったようである。その後、津山の精肉業の皆さんが、終戦前夜の永井荷風とすき焼きのための牛肉を津山から運んだ云々、宣伝に使っていたようである。
しかしながら、棟方志功は谷崎と違って津山を絶賛し、愛し、歌を詠み(資料2)美作地方を愛でる短歌・俳句を数句首残し(資料2-2)、またとんでもないナゾの文章も残している。(資料3) その後昭和28(1953)年1月を最後に津山への旅行を終えている。
志功は津山地方に200点とも云われる作品を落としているが、事実は何も知られていない。識っている人は、もうすでに亡くなっているか、高齢にて当時の事を忘れているのが事実である。
終戦間もない混沌とした時代に津山を訪れ、後に文化勲章を受ける「世界のムナカタ」の若き日の活躍と足跡をいまや高齢となった方々からお話を聞き、資料をみつけ掘り起こしてきた。津山にとって本物のひとつを今すぐにも残す必要があると熱く考えている。
もう時間はない。全て忘れ去られてしまう。
良識ある津山の人々の役割は、将来への大切な文化的遺産を正しく引き継ぐことだろう。
棟方志功、片や草陰の名無し詩人(ウタビト)と自ら称する 柳井道弘。
棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)は、この地における両芸術家の交流や足跡を記録し伝えてゆくために設立したものである。 |

▲1800年代のオルゴールも聞くことができます。

▲喫茶にて
また、運がよければ、木曜・日曜には吉田牧場のチーズピザが食べれるかも?

▲主催:M&Y記念館
上は1000万円〜下は1万円まで。ピッタリ賞も登場して会場は大いに盛り上がった。

▲何でも鑑定団in津山の収録風景。

▲何でも鑑定団in津山の収録風景。
当時はお宝の応募数が250件、観覧希望者数が1300件で、見ることが出来なかった人も多かったと思いますが、ごめんなさい。

▲何でも鑑定団in津山の収録風景。
中島誠之助さんが「津山の底力を見た」と言われたことは、津山の財産です。
なお、お宝展示は好評につき、5月末頃まで延長いたします。
M&Y記念館スタッフ
館 長:松田 信也
名誉館長:山本 直樹
名誉顧問:柳井 道弘
理 事:能勢 哲彰
理 事:服部 常信
参 与:井上 博允
代 表:豊福 恒弘 |