倭文(しとり)地区の史跡と文化財マップ

 "倭文"という地名は、めずらしい。しかも難語句である。正しく読める人は少ない。

"倭文"はシトリ、シズリ、シドリ、シドリノ、シトリノ、シトオリ、シヅなどと読む。また、"倭文"は志鳥、志津、委文、静などとも書く。岡山県旧御津町には、紙工と書いてシトリと読ませる所もある。

 "倭文"という地名起源は、日本古来の織物(倭文織)にある。日本は古来「倭」(わ)といわれていた。「文」はあやと読み布のことである。つまり、"倭文"は日本古来(倭)の織物(文)のことである。ではどうして「シトリ」などと読むのだろうか、日本書紀本文注に「倭文神、これをばシトリガミという・・・」とあることからだろう。一方で、「倭文織」はシヅオリという。日本書紀天武13年12月3日条に「倭文、これをばシツオリという・・・」からくるのであろう。

 また"倭文"の文は斜めに交わった線模様という意味がある。倭文織の特徴は筋模様におられていることにある。つまり、筋(スジ)からシズオリになったとも考えられている。

旧久米町の文化と史跡倭文織上賀茂神社(京都)の荘園と賀茂競馬||
1 戸脇神社跡 戸脇天神ともいう。倭文五社の一つ、1911年(明治44年)に一村一社の制度により、貴布祢神社に合祀された。社地に遺跡碑が立てられている。
2

七つ塚古墳群

(市指定)

久米カントリークラブ内、七つ塚と云われているが八基の古墳がある。古墳時代後期の群集墳の見本的なものである。七つ塚之―旧跡という石碑がある。この近くに竪穴式住居(芦ケ谷)が復元されている。
3 曽根田遺跡 圃場整備に伴う発掘調査で弥生時代中頃の1,2m~2m。深さ0,2m~1,4mのV字形の溝が発見された。
4 江原兵庫助別宅跡 高山城主江原兵庫助の別宅があった所である。この中心部に榎があり、七人塚という石碑がある
5 西御殿(市指定) 浜田藩(後に鶴田藩と改める)は、第二回長州征伐で長州藩に敗れ、城と侍屋敷を自焼し、作州の飛領地に全藩が移って来た。藩主松平武聡(水戸藩徳川斉昭の第十子・慶喜は長兄、岡山・鳥取藩主も兄である)は里公文の大庄屋福山元太郎邸に入る。1871年(明治4年)6月に藩主館(西御殿)に移った。しかし廃藩置県となり、同年8月23日に武聡は東京に移った。
6

東御殿

(藩庁予定地)

西御殿の東側に藩庁の建設を計画したが廃藩置県となり、建設は中止となった。のちに、鶴田藩関係者の山本唯三郎がこの地に(大正8年)山本実業学校を建設した。
7 ひようたん山古墳群(市指定) 東御殿(現愛和荘)にある全長35mの前方後円墳である。墳丘上に稲荷様が祀られている。桑上にも丸尾ひようたん山古墳(全長30m前方後円墳)があったが消滅している。
8 糘山部共同墓地 久米カントリークラブ建設の為移転した糘山部落の墓地が念仏講碑などと、ともにこの地に移転。
9 備前街道の道標(2ヶ所) 佐良山から休乢を通り、西川に行く西川街道と柳で出雲街道に分かれ、一色(山尾神社前)神代を経て桑下から十日乢を越して打穴に行く備前街道の交差する所に「右つやま、左にし川」と刻まれた道標がある。もう1ヶ所は倭文川を渡り、十日乢方面に行ったところにある。乢には鶴田藩の処刑場があった。
10 神實山慈恩寺(天台宗) 美作三十三所巡拝第26番札所、本尊は正観音。前身は石頭山親道寺である。860年(貞観2年)に慈覚大師が親道寺を慈恩寺として開祖したと考えられている。戦国時代、兵火のため焼失したが、江原兵庫助が再興している。
11 丹沢五兵衛の碑 時の領主に対して年貢減額を訴えた為処刑された義人である。元禄時代(1688~1703)の人である。桑下字つづきが五兵衛の宅跡といわれている。十日乢への道の東側に大自然石の念仏供養塔があるが、これが五兵衛の供養石だと考えられる。

12

貴布祢神社と奥御前神社(狼様) 昔は倭文郷総社・倭文庄大宮と呼ばれていた。倭文庄が平安時代に上賀茂神社の荘園になった時に、この地に京都の貴船神社を勧請したと考えられる。
奥御前神社は、狼が神使いとされるミサキ信仰で有名である。社殿の後ろには狼の出入り口としての丸い穴が開いている
また社殿近くには狼の足跡が付いたと云う石がある。両社とも祭神はタカオカミ・クラオカミ(水を司る神)である。
13 供日場高下 此処に倭文庄の8社(貴布祢・戸脇・高津・小彦名・倭文の各社と旧旭町の八幡・徳尾・刀八の各神社)の御輿が集まり古式に従って大祭の祭典(倭文神幸)が行われていた。中世には旧旭町の三社は参加しなくなり、それ以後は五社で行なわれていた。昔、この地に大きなお宮があり、鳥居の側大きな槙の木が1本あったという。
14

河原儀山真光寺

(天台宗)

本尊は薬師如来の立像で右に日光菩薩、左に月光菩薩の脇侍を伴なっている(薬師三尊)この薬師三尊を護るようにその周囲を十二神将が取り巻いている。比叡山の民部大僧正が932年にここで念仏思念三昧に入った。百日目にたちまち九万八千の軍神が机の四面に現れたという。境内には鎮守の白山権現がある。
15

山田原一号墳

(市指定)

丘陵性山地の頂上に近い南斜面の傾斜地にある。古墳の封土が流失し横穴式石室が開口している。以前ここから両刃の鉄剣が出土したと云う。
16 両山寺五滝のうちの小滝・大滝・宇通谷滝 これらの滝は八社川上流にある。小滝(高さ約20m)付近はよく整備されている。大滝((高さ約15m、幅12m)岩上に天狗松二本があった。宇通谷滝(高さ約36m)は雑木林の中にある。
17 傍示乢 ここは、小山や両山寺に行く道が交差している。昔は両山寺などに行く人で賑わっていた。石仏と道標や琴平三保(美保)・中山・祇園・の各神社の石碑がある。津山藩(森氏の時代)の時境界を示す傍示樹があつた。
18 高津神社とコガ(カコ)の木(市指定) 高津という名は、仁徳天皇の宮都である高津宮(大阪)にちなんだ名前だといわれている。祭神は大日霊貴命(天照大神)である。参道には木造の両部鳥居があり、次に鶴田藩主松平武聡寄進の一対の石灯篭がある。神社地の広さは旧久米郡内一番である。境内のカコの木は市指定である。
19 平福城跡 毛利左近の城で、高津神社近くの雑木林の中にある。天正年間(1580年前後)に現在の鏡野町下原の目崎城主と戦い敗死している。
20 蛇行剣出土地(藤蔵池池頭) 全国的に珍しい蛇行剣は、消滅した古墳(古墳時代中期)から出土したと考えられる
21 里公文土拡墓 弥生時代の共同墓地であったと考えられる。六基の土拡墓の一つから壺棺が出土した。

22

鶴田藩遺跡(藩主の居館場所) 浜田藩主(のちに鶴田藩となる)松平武聡は、浜田からのがれ大庄屋の福山邸にはいった。西御殿に移るまで、ここに居住していた。
23 つぶて石 里公文字森岡の田の畦にある。周囲4,5mの大きな石である。目崎城主の戦いの時平福城中からつぶてのように投げた石だといわれている。
24 江部山善福寺(天台宗)と板碑と宝篋印塔(市指定) 本尊は阿弥陀如来である。
板碑は高さ40cmほどで、梵字の下の所が折れて紛失している。板碑は、先祖を供養する為の供養塔であるが関東では珍しくないが関西ではあまり見かけない。宝篋印塔は高さ188cmあり、鎌倉時代から南北朝時代にかけてのものだと考えられる。この板碑も宝篋印塔も善福寺の旧境内から掘り出されたものである。
25 毛利氏墓所 平福城・円宗寺城主であった毛利氏は目崎城主との戦いに敗れその後、高津神社の神主となった。
倭文五社の正神主という最高の地位にあったが明治時代に入り、神主職をやめている。里公文字日岡に四基の五輪塔などの墓石がある。またこの下にも自然石の碑や蘭塔や数基の墓石がある。
26 清水山祥雲寺跡 弘法大師の開基で、本尊は千手観音であり、赤松氏がこの寺を尊宗していた。そして堂宇の壮麗なことは旧久米郡第一であった。寺内には山水があったと伝えられている。今でも寺跡には清水が湧いている。
27 鶴田藩共同墓地 鶴田藩関係者の墓地は倭文地区内各所にあるが、此処には数十基の墓石がある、里公文町内会が年一回草刈をする以外世話をする人はいない。
28 ごぜ岩 天明年間1人の盲女がこの岩の下の所で休んでいたら、突然岩が落ちてきて下敷きになった。高さ2,12m,周囲15,36m約で頂上は平坦な巨岩である。
29 円宗寺城跡 平福城とともに毛利氏の城であった。
30 大仙智明権現 大仙様は、元は山の神であった。正月には家に入り歳神様となり、二月の亥の子の日に田に降りて来て、田の神となり、十月の亥の子には山に帰り山の神となるのである。山の神のお使いが、狼・猿・牛であることから大仙信仰は牛の神様として始まった。この石碑のある場所は高所なので、大山の遥拝所であったと考えられる。ひようよけの神様ともいわれている。
31 石仏 炭焼様越し付近の眺望のよい所にある。近くに大仙智明権現や立岩がある。
32 八幡長者伝承の地 この地に八幡長者が住んでいたという伝承がある。長者は泥棒に備え、黄金を七つの瓶に入れて召使の三吉に山中に埋めさせたが、ばれるといけないので三吉を殺してしまったという。
33 奥の前一号墳・内行花文鏡・短甲(市指定) 全長約70mの前方後円墳(古墳時代前期)で旧久米郡一の大きさである。ここから人骨や二面の内行花文鏡(うち一面には絹の布が付着していた)や日本では三例目の出土である短甲が出土している。
34 倭文神社 祭神は倭文織の神である天羽槌雄神である。雄略天皇の時代に、この地域に倭文を織る人達が配置された時に守護神である天羽槌雄神を祀ったのであろう。錦織や綾部は絹織物を生産していた。倭文地区を含め古代、美作地方は一大織物生産地であった。
35 小彦名神社と岩滝様 古くは「赤子の宮」「児の宮」などと呼ばれていた。大国主命とともに国作りをした小彦名命を祀っている。境内付近は弥生時代の集落跡である。小彦名神社の隣りの岩滝様は巨岩信仰の一つであり、女性の下の病の神として信仰されている。
36 ださあ石 周囲15m高さ約5,45mある巨岩である。地元の人は祠をたて、神石として崇敬している。(昔一人の男が石のみをあてた所紫色の血がほとばしったという伝説がある)。ここより約100m下の道端に突き出している部分があり、地元の人はこれを岩根といっている。
37 蛇谷古墳(市指定) 直径約11m・高さ2mの6世紀から7世紀初期にかけてのもの。封土が流されて、石室だけが残っており約7mの無袖の石室がある。
38 源平椿(市指定) 1本の椿に淡紅色と赤色の花が咲く。森氏が津山城築城の時、殿様から貰ったものだという伝承がある。
39 高山城跡 標高431,2mの高山の山頂にある。山頂には土塁が残っている。また、付近には曲輪や堀切もある。築城は江原兵庫親次だと考えられる。
40 本多応之助の墓 父母は安芸から油木北に来る。武道によって身をたてようとしたが、黒住教に入信し布教活動を熱心に行なう。鶴田藩騒動では指導者として活躍したが逮捕され獄死した。黒住教信者が応之助の自宅上(馬坂敏雄宅)に立派な墓石を建立している。
41 禾食石 七森神社跡の奥に数多くの巨岩がいつかの所にかたまってある。その中に高さ約4,55m・周囲6mで、石の頭に北に向かって口を開けたような岩がある。この下に小祠がある。この岩に斧を振るって石を打った人は、その場にたおれ死んだ。岩の根元からは紫の血が流れ出て、一天にわかにかき曇り、あたり一面真っ暗になり、電光雷鳴が物凄く大雨になったという。
42 構城跡(川原屋敷) 宇喜多家の家臣川原兵衛信基の館跡である。丘の頂上を削平にし、約縦72m・横45mの平地が造成されている。西北隅には土塁状のものがある。
43 コミカンの木(市指定) 老成木は珍しい。境界木として尊重された為であろう。樹齢推定350年
44 シイの木(市指定) 甲元家の若宮神社の神木。根元から幹が3つに分かれている。樹齢推定500年
45 稲荷社 山背越の道筋にある。元は構城の西北隅にあったが、高津神社に合祀された、ところが神代地区に不幸が続いたので再び元の地勧請した。境内に千手観音がある。
46 大蔵池南遺跡 ゴルフ場建設時の発掘調査で砂鉄を採取する鉄穴流し遺構が96本発見された。ゴルフ場内の道路建設時に日本最古(当時)の古代製鉄遺跡(6世紀後半)が発見された。炉跡にはサツキが植樹されている。
47 観音免古墳(市指定) 一辺17m高さ2,7mの方墳である。墳丘下には観音堂(米くずし観音)があった。
48 牛岩遺跡(市指定) 直径10m位の範囲内に十数個の花崗岩の巨岩がある。古代人の祭祀遺構だと考えられる。この近くに牛神様の小祠や古墳がある。また集落跡もある。
49 植樹記念碑 山背越沿いに石碑が建てられている。大正天皇即位を記念して神代地区の人が植樹した。
50 リンバーグ岩(糘山頂上) 糘山部落の人達は糘山は明神山と呼び、聖地として尊重されていた。山頂は経10mほどの平坦部があり、其の中心部は円形に経5m位の範囲に20cm~30cm位の大きさのリンバーグ岩が積み上げて塚状にしてい る。中央には小祠がまつられていた。リンバーグ岩は、玄武岩の一種で、暗褐色をしている。1951年(昭和26年)に京 大春本教授により発見された。ヨーロッパに同じものがある。糘山周辺に数多く転石している。
51 城﨏上一号墳(市指定) 経11m高さ1,1mの円墳である。墳丘が土取り場となっていたらしくかなり掘られている。近くに千手観音がある。
52 道しるべ(元標碑) 道路沿いに新しい「距岡山元標十五里」という石柱が立てられている。岡山県の道路の起点は岡山市本町(現京橋)の旭川にかかる橋である。ここから津山市神代の大上まで15里(約60km)である。
2009.07.17

資料提供:史跡保存会

津山市里公文1676-7 倭文ふれあい学習館 TEL0868-57-2413