倭文(しとり)神社(油木北)旧久米町

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倭文(しとり)神社 大字油木北字宮山

 古来倭文郷の地主神として祀られた神様で、倭文(しとり)神社と唱えたが、中世志津(しず)大明神又は、七津(しづ)大明神と唱えられ、明治6年油木神社と改称され、更に明治10年に旧称の倭文(しとり)神社に復して今日に及んでいる。
 作陽誌には、七津明神とするのは倭文の?(太く荒い糸で織った絹織物)の名の「倭文」は志登利、あるいは志都利と讀むべきものを「都」は「ツ」とも読むので倭文をシズと読んで「七津」の文字を宛てたものだが之は誤りであるとするのである。

祭神は、天羽槌雄神・伊邪冊命・素盞鳴命・奥津彦命・奥津姫命・品田和気命・高龗神・味鉏日子根命・大己貴命である。
祭日は、例祭11月2日、祈年祭5月5日、新嘗祭11月23日。

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此の神社の主神は天羽槌雄神で、ここに勧請された年月はわからないが、仁徳天皇の御代に祀った倭文郷の地主神とする説がある。倭文連達が此の地方に養蚕絹織の業を伝えた時にその守護神として祀ったものがこのお宮の起源である。

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手水鉢

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燈籠

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拝殿                             本殿

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本殿

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社務所

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末社神


当時東西五十三間、南北六十三間御座候。当時の社は天正六寅年之再建にて領主江原兵庫助殿建立の棟札御座候。油木・福田の氏子村々に末社御座候事。
1.同荘白山神社は福田下村に御座候。倭文神社の末社に御座候。祭神は伊弉冊尊にて本社倭文神社と同時の御鎮座に御座候。祭礼は本社へ付来り毎年9月13日傘鉾にて御旅所幣山へ御同道神幸有り来りに御座候。当社は末社中旧社にて往古之通り神祭式御座候。境内山林、東西七十五間、南北百三十間、古来の侭に御座候。
右之通り相違御座なく候間宜しく御沙汰下さるべく候。以上
美作国久米郡北分倭文五社幣頭
元禄一二卯年十一月 爲貞國太夫
御本所 御役所
文書によると人皇第十代崇神天皇の七年十一月の鎮座とあるが、我が国の歴史で推古天皇の即位、西暦五九三年以前のことはわからないとされている。第十六代仁徳天皇になって始めて即位の年が西暦四二二年と擬せらているが、たしかではないのに仁徳天皇よりも五代も古い崇神天皇は即位の年すら全然わかっていない現状の下にあって「崇神天皇七年十一月丁卯」と書いてあり、それには根拠があってのこととは思うけれども此のままを歴史上の事実として認める訳にはいかないのではあるまいか。(仁徳天皇の御代とすることすら危険を感ずるものである)

記録によれば、当社は炎上したという状況を知ることが出来る。棟札中、寛文5年のもの及び貞享元年のものに、「両村十二之氏子云々」の文字がある。これは当社の宮座の名称かとも思われるが、はっきりしない。只享保4年10月、京都の吉田役人宛の文書の末尾に「志津大明神児宮氏子中の頭氏子印形云々」と記して下の12名が連印しているので、或いは此の12名の頭氏子なるものが、前記「十二之氏子云々」に該当するものかとも考えられるのでここに記して後の研究をまちたい。
久米北条郡油木木村古来氏子
助次郎 九右衛門 新助 多兵衛 三郎右衛門 仁左衛門 忠兵衛 久太夫 孫四郎 彦右衛門 市兵衛 彦治郎 


(文:久米町史より抜粋)取材2014年9月22日