![倭文(しとり)神社(油木北)旧久米町](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2014/11/hitori2-thumb-120x120-91001.jpg)
倭文(しとり)神社(油木北)旧久米町
![皆戦場〔合戦場〕(草加部)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/03/kaisen1-thumb-120x120-91010.jpg)
皆戦場〔合戦場〕(草加部)
![行啓道路(津山市山下)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/07/800%E8%A1%8C%E5%95%93%E9%81%93%E8%B7%AF-thumb-120x120-91204.jpg)
行啓道路(津山市山下)
![能万寺古墳群(きつね塚遺跡)(津山市押入)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/01/kitune5-thumb-120x120-91341.jpg)
能万寺古墳群(きつね塚遺跡)(津山市押入)
![明治時代に「押入」と「小原」に温泉があった。](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/01/1-thumb-120x120-91748.jpg)
作陽誌によると、昔、此のあたりに住んでいた肩野部氏の家に強盗が入り、肩野部氏は強盗により深手をおい再起不能となった。そこで、肩野部氏は妻に対して、「自分は命をとりとめることはとうてい出来ない。おまへは未だ歳も若いのだから、自分の死後は、やもめ暮らしをすることなく新しく夫を持って幸福にくらしてくれ。」と申し渡した。之に対して妻の曰く、「あなたが此の様な災難に遭ったのは天命であり、私が若くして夫に別れるのも亦(また)天命です。今後私のとるべき道は只一つ、天命に随(したが)うことで、それ以外に道はありません」と、早速に自分で髪を斬って再婚の意志の無いことを示した。そして夫の死後は尼となり、居宅を捨てて寺とした。善福寺がこれである。(取材2014年9月18日)
だから此の寺を俗に婦寺と呼んだ。此の寺には釈迦入滅の壮麗な彩画があり烈婦が投じたものである。と言い伝えられている。又、一説には、大江氏の建立した寺で、それだから「江部」と名付けたのである。ともあれ、どちらがよいとも定め兼ねる。というのが作陽誌の記載である。
しかし、寺伝によると、肩野部氏の妻は夫の死後、尼となり、名を「福善」と改め、行基作の阿弥陀如来を本仏として念仏三昧に入ったもので、此のことのあったのは天安元(857)年であって、それから三年後の貞観二(860)年に叡山の第三祖、慈覚大師が当地に来て福善の乞いを容れて、福善が安置していた阿弥陀如来を本尊として開基して「江部山善福寺」と命名し、天台の末寺に加えられた。となっている。作陽誌の肩野部氏とその妻のこと、それに、此の寺伝を補なうと、江部山善福寺縁起は出来上がるのである。
糘山(すくもやま)の長者屋敷が、肩野物部の一族の居宅跡であったと考証することが出来るし、善福寺の縁起其の他に出現する肩野部氏、桑下村片部某は糘山に居た物部肩野の一族であったと考えられる。
又、当善福寺については、天保十年に当寺仮本堂建築に関する願書がある。仮本堂建立の許可申請書である。当時の善福寺は里公文上村の地内にあり、里公文上村は幕僚であって播州竜野藩脇坂氏の預かりであった。当善福寺の本尊に就いては作陽誌及び寺伝(縁起)では行基作の阿弥陀如来であるけれども、天保十年のかき上げでは聖観音となっており、其のように届け出もなされていた模様であり、明治になっても明治十一年の社寺明細書にも、明治十三年の寺院明細帳にも本尊は聖観音となって其の筋へ報告されている。(文:久米町史下巻より抜粋)
阿弥陀 行基作、鎮守 山王権現、
本寺 延歴寺法流惣持坊、境内 東西六十二間 南北二十八間
本堂の彫り物
鐘楼 中部霊場第58番札所
境内
本堂 地蔵
宝篋印塔「久米町指定文化財宝篋印塔と板碑」
新しくなった庫裏です。(平成29年1月26日撮影)
新しくなった庫裏です。(平成29年1月26日撮影)