2010年06月

ホルモンうどん研究会総会での決意表明!

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津山ホルモンうどん研究会に頂いた各表彰状が披露されました。(向かって右から)
中国地方地域ブランド評価委員会=中国地方 春のとっておきの地域 認定証(津山の鉄道文化遺産とホルモンうどん岡山県津山市)上は春の季節にふさわしい景色と食を有していることから中国地方春のとっておきの地域として認定します。(H22.3.2) 
岡山県美作県民局(局長 角田保彦)=貴団体は市民と行政が力を合わせて社会づくりを進める協働の取組を通し「新おかやま夢づくりプラン」の推進に多大の貢献をされましたのでその功績に対し表彰します。(H22.6.9)
岡山県観光連盟(会長 石井正弘)=あなたは観光事業の重要性を深く認識され地域特産品の開発に努められ多年にわたり観光おかやまの発展に尽くされた功績は誠に大きく他の模範となりますので表彰します。(H22.5.26)

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平成22年8月1日(日)「STREET PARK」開催!

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▲2010年なぎスポーツクラブ(勝田郡奈義町柿1074、奈義町B&G海洋センター)にて
なぎスポーツクラブは約20種類の教室を開講する総合スポーツ施設です。中でもスケートボードパークは、岡山県北部唯一の施設です。
2010年8月1日(日)「STREET PARK」開催要項

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【長法寺】あじさい祭と薄田泣菫と田岡嶺雲ゆかりの鐘

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▲あじさい祭【長法寺】2010.6.19(土)~20(日)午前9時~午後4時
阿弥陀堂(説教堂)
阿弥陀如来を本尊とし、脇侍に天台大師、伝教大師をおまつりしている。現在のお堂は弘化2年(1845年)西方にあったものを移し、阿弥陀堂兼客殿として再建す。
明治6年(1873年)津山城取り壊しの際贈られた。本丸御殿の鬼瓦、鯱(しゃち)、紫陽花(あじさい)の絵を描いた襖障子がある。2009年の紫陽花の様子はこちらから

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知新館(旧平沼騏一郎別邸)

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▲表門は、主屋の正面に開かれた三間一戸の門で、両脇に塀を取り付けており、腕木を伸ばして屋根を支える形式をとっています。(国の登録文化財)2010.6.14取材

知新館の位置と歴史
平成10年10月に国の登録有形文化財となった「知新館」は、岡山県北の城下町津山市の南新座に伝わる武家屋敷で、第35代内閣総理大臣平沼騏一郎(1867~1952)の別邸として建てられたものです。
知新館のある場所は、国指定史跡の津山城跡の南西に位置し、旧津山藩士であった平沼の屋敷があったところです。昭和14年(1939)に第35代内閣総理大臣に就任した平沼騏一郎と、その兄で早稲田大学の学長をつとめた平沼淑郎の兄弟も、この地で生まれ、明治5年(1872)に東京に移住するまでの幼児期を過ごしました。
現在の知新館は、その当時のものではなく、騏一郎の古希を祝して、法曹界ならびに津山人々が中心となって平沼兄弟の生家であった屋敷を買い戻し、昭和12年から翌13年にかけて元の旧邸の姿に再現したうえで騏一郎に贈呈したものです。
彼は、幼い日の思い出の残るこの別邸を殊のほか愛したと伝えられ、郷里の津山に戻った時は、ここに滞在しています。その後、昭和25年に、この別邸は平沼家より「津山市民の公共福利のために役立ててほしい」と津山市へ寄贈されました。市では翌26年に津山市内及び周辺地域の歴史資料を収集展示した市立津山郷土館として開館し、永年にわたって津山地方の史学研究の場として大いに活用されました。
そして、昭和62年に市立津山郷土館としての使命を終えた旧平沼騏一郎別邸は、平成元年から市民の文化・芸術活動の場として再び活用されることになり、名称も「知新館」と改称され、現在に至るまで多くの市民に利用されています。

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出雲街道 坪井宿

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坪井宿は、津山から三里半(約14キロメートル)程の距離にある。津山を発した出雲街道は、院庄から吉井川を渡り、中須賀・領家(茶屋)・千代・坪井と久米町内を経て真庭郡落合町へ通じているが、その宿場跡として唯一町内に残っている場所が坪井宿である。
ここ坪井がいつごろから宿場としての役割を果たしていたのかは定かではないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が美作国主として作州に入封した慶長8年(1603)以降といわれ、以後、街道の整備や交通量の増大にともない、陰陽交通の要として宿場機能の充実がはかられていったと考えられている。さらに、元禄10年(1697)森氏廃絶ののちは一時幕府領となったことにより、幕府の代官所が宿場内に置かれたため、以後は宿場町であるとともに、政治的な機能をも併せもつこととなった。
かつての町は、七森川から引いた水が流れる水路が中央にあり、それを境に南北に二分されていた。水路を挟む道路は南北それぞれに二間(約3.6メートル)の幅をとり、北側の道路は出雲街道で多くの旅籠や家屋が並んでおり、対して南側の道路は里道といい、一般の使用に供されていた。このような町のかたちから当時は「麦飯町」の異名もあったという。そして、水路のほとりには柳が植えられ、現在、町中にある常夜灯もかつては水路のたもとで灯りを点じていたとのことである。
宿場町坪井は、江戸・明治・大正・昭和とその役割を果たしたのち、宿場当時の面影を残す平静な住宅地となり、現在に至っている。(2010年5月30日)
久米町教育委員会

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