2013年02月

じ・ば・こ(じいちゃん・ばあちゃん・子どもたち)みんなの文化祭

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じ・ば・こ(じいちゃん・ばあちゃん・子どもたち)みんなの文化祭
日時:2013年2月24日(日)10時~午後3時、会場:作州民芸館
 子どもたちに、文化や遊び、手を使った作業を伝えることと、子どもたちと地域の方の交流を目的に開催されました。
 実行委員会には、西小学校、西幼稚園、城西保育園、美作大学、NPO支援センター、津山市、津山市社会福祉協議会、青壮年会や子供会んお方も加わり、どんな内容にしていこうか検討してきました。
この日行われる、いろいろな体験に参加した子どもたちには、この日だけ使える特別なお金「テラ」(寺)」がご褒美。(文:城西まちづくりレターより抜粋)

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和加美神社(下高倉西宮前)

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和加美神社(わかみじんじゃ)
 水嶋隆之宅の東側のお宮が和加美神社で、地元では「ワカミヤ様」と呼んでいる。延享4年(1747)、高倉に米井庄助という人が生まれ、幼少より利発で学問や俳諧等に優れ、村内はもちろん近隣地まで有名になり、学問を教えていたが47歳で病没した。明治14年、神としての格式を賜り和加美神社が建立された。(2013.2.20)(文:高倉の歴史と文化財より)

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高倉神社前の地神様(下高倉西字宮前)

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地神様
 高倉神社の前に自然石に「地神」と深く刻み込んだ地神様がある。地神様は土の神で農民を守り稲の生長を助け、豊かな実りをもたらす農業の神として祀られている。地神様の祭りは春、秋の彼岸の中日に近い戊の日にあたる社日に行われ、この日は農作業を休むことになっていた。建立年代は刻まれてないが、天保から明治末年にかけて各地で建立されている。現在は高倉神社の祭典にあわせて祀っている。
2012.12.16取材(文:高倉の歴史と文化財より)

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2013年2月のイナバ化粧品店

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2013年2月17日(日)のイナバ化粧品店の店内です。全国各地からおいでになっていましたよ~。ママの笑顔が素敵です。今年も稲葉浩志さんは1月に津山に帰って来られたようです。一昨年は寝られぬ夜はこっそりかたずけもされたとか。ママの躾は流石ですね。

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愛宕大権現・秋葉大権現・大日如来(高倉)

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愛宕大権現・秋葉大権現・大日如来
これらの石塔は、「御食事処たかくら」から北に行くと左手の松林の中にある。「京都の愛宕様」の御神体は火神、雷神であり、「長野の秋葉様」も火防(ひぶせ)の神で多くの村々に勧請(かんじょう)され災難よけを祈った。一時、祀りがすたれていたが西尾で火災があってから、西尾組合で清掃し祀っている。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16日取材

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田熊 田んぼの中に祀られている祇園様

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田熊の水田地帯の中ほどに、祇園様が祀られている。構造改善事業で区画整理されている広々とした田んぼの中に、一画だけ2~3の樹木に鳥居と小祠の祭祀場所があるため、遠くからでもすぐ見つけられる。
  祇園様といえば、誰しも京都の祇園祭を連想するように、祇園祭を行う八坂神社から、この神様=牛頭天王を勧請したものであることは明らかである。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012年8月お涼み

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福井 源平の古戦場を語る新宮城址

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 福井の南部、土居の公会堂付近に、真宮神社の鳥居や花壇があり、その地点より山手へしばらく上がると、海抜204mの平坦な山頂部に達する。ここに福井と新田にまたがって古い城跡があり、新宮城跡と言われている。展望のきく南側は、広戸川に面して急峻な岩肌が切り立っており、城としては天然の要塞を思わせるものがある。
 山頂の平坦地は、南北およそ40間(約70m)・東西180間(約200m)の広さがあり、中間に長さ40間余の土塁らしきものが残されている。かっては、土塁の西側に建物の本拠があり、広い東側は、城郭内の広場や城兵糧食の耕地であったと言われている。この新宮城跡については、源平のころからの古い歴史をもつだけに詳細不明で、城主についても異説があり、名称すら新宮か真宮か判然としない面があり「東作誌」等でも謎に包まれた記述がされている。
 しかし一般にはあまり知られていないが、明治末年に書かれた新宮城の詳しい伝記本が存在している。安藤十朗氏著「霊夢 神宮山木下伝記」(和綴じ全5巻付録1巻 福井 安藤六衛氏蔵)がそれである。
 平安後期に平氏一門の木下氏が拠点として築城した様子から、源平合戦で滅亡するまでの経過を、年代をふまえて克明に記録した伝記である。2012.6~12月取材

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安藤幸夫さん(刀銘 広清)県重要無形文化財

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 安藤幸夫(刀銘広清)さんは、昭和22年2月4日津山市福井生まれ、東京でコック(札幌オリンピックにも関わる)をしながら、昭和40年鎌倉市の研師西村勝政に入門し砥の勉強をしていたそうです。子どもの頃から刀が好きだったので砥をやったが、終始一貫して出来るということで、昭和47年に刀匠(刀匠 小林康宏氏に師事。8年間の修業を経て文化庁から刀匠の認可を受けた。56年郷里の津山に帰り、本格的に作刀を始めたのだそうです。同57年には新作名刀展に初入選する。以後、連続して入選する。

<以下の文章は津山市広報から抜粋>
 日本刀は月に2本しか作ることが許されていませんが、その少ない機会の中で、様々な鉄を使って、研究を重ねています。特に江戸時代以前の鉄砲や釘などの古鉄を探し、鋼に仕立て直し材料にしています。大変手間が掛かり、ほかの刀匠は嫌がりますが、この手間こそが現代に名刀を蘇らせるのだと思っています。
技術というものは、いったん失われてしまうと、蘇らせるのに百年は掛かるものです。ほんの一瞬のことで次の世代に伝統が伝わらなくなってしまう。そんな失われた幻の古刀を自分の手で再現したい。

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首切り地蔵 下高倉西字輿曽乢(よそだわ)

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首切り地蔵 下高倉西字輿曽乢(よそだわ)
 広域農道ができるまでは、岩端池から一宮街道を西に行き坂道を登った峠の上に首切り地蔵があった。この道は高倉から津山に行く主要な道路であったが、高倉の道は雨が降るとぬかるみとなり、ここで泥を落とし一休みして、お地蔵さんを拝んで通っていた。1982年、広域農道建設に伴いお地蔵さんは少し移転され、現在谷口家の墓所の一角にねんごろに祀られている。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16取材

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