「従此千年寺道」の石柱(下田邑)
津山市下田邑に「従此千年寺道」の石柱がある。この石柱は、津山市一宮にある「瑠璃山 本光寺」と下田邑にある「長継山千年寺」(長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。)を結んだものでしょうか?※長継公は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の重臣だった。(2014年5月6日取材)
津山市下田邑に「従此千年寺道」の石柱がある。この石柱は、津山市一宮にある「瑠璃山 本光寺」と下田邑にある「長継山千年寺」(長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。)を結んだものでしょうか?※長継公は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の重臣だった。(2014年5月6日取材)
吉見神社 所在 神庭村大字吉見
大日靈尊・大己貴命を祀る。元和2年9月字岩尾山鎮座女一神社(祭神大日靈命)國司神社
(祭神大己貴命)を合祀し、字京上に轉祀す。女一社は仁壽元年3月、國司は安和元年9月の勸請と傅へらる。明治6年村社に列せられ吉見神社と改稱す。大正6年無挌社12社を合祀す。後神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(文:苫田郡誌より抜粋)2014年9月26日取材
上部神社 所在 神庭村大字草加部
譽田別命を祀る。天照大御神及び天兒屋根命を相殿とす。初め欽明天皇32年天照大神を祀り上部大神宮と稱す。次て清和天皇貞勸2年更に譽田別命を勸請し天照大御神及び天兒屋根命を相殿に祀り上部八幡大神宮と改稱し、養和中初めて放生會を行ふ。明治6年村社に列せられ上部神社と改む。同40年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(文:苫田郡誌より抜粋)2014年9月26日取材
草加部地区の工業団地の西側のところで、加茂道に両側から山がせまり、地形が馬の鞍のようにせまくなっているところがある。この地は小字名が皆戦場と呼ばれているところがある。
土地の古老の話では、この地では度々戦があったと伝えられている。
地名は皆戦場であるが合戦場がなまったのではないかとも言われている。戦国時代、美作の地は山名・赤松・尼子・毛利・浦上・宇喜多の侵略を受け、争乱の地となりました。「皆戦場」という地名は『萩藩閥閲録』によれば、天正8年の岩尾山(医王山・祝山)城をめぐり、毛利と宇喜多の合戦に関連があるようです。合戦場は、広い一帯に及んだようで、刀や兜等も出土しています。
(文:平成15年度 第10回高野地区三世代交流ウォーキング大会資料より)2015年2月19日取材
2015年3月23日のイナバ化粧品店内の様子です。(↑イナバママ撮影)
先週の土日には遠方から沢山のファンが訪れてくださったのでとても楽しかったとママがお話し下さいました。また、「自分はとてもそそっかしい人間で、駅でタクシーを拾い、行き先を告げると目の前だった等はいつものことなんよ!」と大笑い!私もしょっちゅうあるので他人ごとではない。
箕作秋坪は1825(文政8)年に菊池士郎と多美の二男として備中国下呰部村(あざえむら)に生まれました。13歳で父を亡くしますが、17歳頃から父の旧友・稲垣研嶽(いながきけんがく)の下で漢学を学び、さらに江戸へ出て箕作阮甫(みつくりげんぽ)に弟子入りしました。
1849(嘉永2)年には、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。この時にはもう箕作家の養子になることが内々に決まっていたようです。翌年、藩に正式に養子として認められ、さらにその翌年、江戸へ戻って阮甫の三女つねと結婚。新進の医師として活動を始めました。この時秋坪は27歳でした。
翌1852(嘉永5)年には、藩主松平斉民(まつだいらなりたみ)のお目見えもいただきました。
津山文化センター 展示ホール(津山市山下)で3月6日~3月8日
津山ラン友の会の皆さんが丹精込めて育てた蘭の花の展示会がありました。友人と訪れたのですが、今年は珍しい蘭も多く出されていて大いに楽しめました。それに、シンビジュームやカトレアの甘い花の香りに包まれ優雅なひと時が過ごせました。また、押し花グループ「工房 咲季」さんの作品も飾られていて素敵でした。(2015年3月8日取材)
板画、倭絵、油絵、書のほかに、志功から柳井道弘あての手紙やハガキ類も新たなものを紹介しています。さらに、裏彩色の技法を直に見てもらえる展示も行われています。〔文:棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)〕2015年3月7日取材