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大町の集会場の中には、お大師様、お薬師様が祀られています。

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 田熊分広戸川の東側山手に、下木(北)と大町(南)の集落がある。それぞれ集会所があるが、この中に下木ではお大師様が、大町ではお大師様、お薬師様が祀られている。大町の場合、阿弥陀様があった場所へ集会所を建てており、いわば仏様がもともとの本家であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)
2012年9月9日(日)取材

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明治の講組文書等を保存の下木お大師様

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 田熊分広戸川の東側山手に、下木(北)と大町(南)の集落がある。それぞれ集会所があるが、この公会堂の中に下木ではお大師様が、大町ではお大師様、お薬師様が祀られている。
 下木の場合、お大師様を祀るお籠り堂が古くなったので、昭和57年、その場所に集会の便利を考えて、集会所に建て直した。大町の場合も同様で、阿弥陀様があった場所へ公会堂を建てており、いわば仏様がもともとの本家であった。
  仏様がこうした位置にあるということは、お大師様なり阿弥陀様が、寄り合いの度に日常的に親しめ、信仰できる便利さを考えてのことであり、昔からの信仰と結び付いた村の暮らしの一端を伺わせるものである。
 とくに、下木の公会堂の中にあるお大師様には、明治期の、四国八十八カ寺納経帳(集印帳)・講連中議定書・毎月講定約書等の関連文書が保存されていて、村の暮らしを考えさせられる貴重なものなので、紹介しておきたい。(2012年9月9日取材)

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福井 薬師院猿の湯伝承の薬師様

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 福井八幡様の南側の麓から、勝央町にぬける道(工門勝央線)が通っている。その道に入ってなだらかな登り坂を数百mも行かないうちに、いわゆる火のかま古墳がある。その古墳から道路をへだてた東側の丘に、粗末な方1m余で背丈ほどの高さのお堂がある。なお、このすぐ近くには、広野小の初代校長松本譲先生のお墓もある。
 このお堂に、古くて塗りのはげた高さ30~40cmの仏様=お薬師様が安置されている。さらにその横には、年月を経て朽ち果て虫食い状態で頭と胴だけの、おそらくはその先代の仏様が並びおかれている。
 この薬師様は、火のかま古墳の下の谷筋より現在地に移されてはいるが、平安末期、新宮城の栄えていた当時、温泉の湧き出た薬師院の湯ゆかりの伝承をもつ仏様である。新宮山木下伝記によると、およそ次のような記述がある。
 新宮城主二代道衡(みちひら)の時、康平元年(1058年)この丘陵のすそ谷筋で薬師院というお堂を開いていた海常坊が、読経のさなか庭で湯浴みの音がするので、のぞいて見ると、大きな老猿が泉水に入っていた。驚いたことには、湯気が立ち昇っていて水が温かくなっており、泉水に湯が湧き出ていることを知った。海常坊は、直ちに城主に願い出、薬師院猿の湯という湯治場(とうじば)を設けることにした。やがて、傷も癒え、難病も平癒する薬湯のうわさが広まり、近郷近在から沢山の人々が入浴するようになって、大変な繁盛を迎えた。この結果、多くの湯銭かわりの賽銭賽米が貯えられることになった。その貯えは、海常坊(みたちぼう)の願いでにより、福井正伝寺に五重塔建立の資金となったと言われている。猿の湯は、その後74年間も続いて湧き出ていたが、長承元年(1132年)4月、他国の武士と浪人者が湯船で喧嘩・殺傷事件を起こしたため、湯の入れ替えを試みたところ、これを機として湯は出なくなり、温泉が途絶えたそうである。
(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年6月28日取材

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