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大田神社(津山市大田)

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 由緒並びに沿革
此の社は大田神社と号し鎮座の地を土居内と稱し創立年紀明記を存ぜず 往昔土居内大明神と稱へ来たりしを明治6年大田神社と改稱し村社に列格す 当社は美作一宮の住人関勅解由(勘解由は藤原氏にて大職の儀の後胤田原藤太郷12代の胤と伝ふものなり)は敬神の念深く此の地に下屋敷を建て朝夕の拝礼怠らず後年に至り今の涼矢倉の地に納涼殿を建立し涼神殿と稱へ此の殿へ6月15日には土居内大明神の御神幸を仰ぎ納涼祭を毎年取り行なはせらる。又四季の祭典に奉納の金子も多額に上がりと云ふ

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高田神社の秋まつり

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平成23年10月9日(日)

高田神社(たかたじんじゃ)は上横野と下横野地区の氏神様で、獅子舞は岡山県指定重要無形民俗文化財です。
「高田神社の獅子舞は、伝承によると、和銅6年(713)に美作国府が開設されて以来、毎年9月9日に美作11社の神々が総社に神幸した時からこれに加わっていたといわれている。
文化・文政から明治期にかけては、とくに盛んで人々に悪魔払いとして信仰を受けて来ている。獅子舞には古くから獅子頭と呼ばれる指揮者がおり、これは獅子を使う技術や人物を見込んで氏子たちが選出した人で、現在では、上が勤めている。
獅子舞の構成は、笛8人、太鼓4人、獅子10ないし12人が一頭にはいることになっている。舞方は最初神社に向かって左側に雄、右側に雌を対置させて二頭の獅子を眠った状態にして置く。次いで、最初の笛、太鼓の音に獅子は目を覚まして耳をそば立たせ、やがて生けるがごとくにらみ合い、右に進み左に退きいどみ合う。これを地ねりという。それから、御旅所に行き、道中においては先ぬけの役目を果たしながら木殿の前に帰って来る。最後は、獅子と称して立ち上がり雌雄双方寄りそっては、かみ合い、睦み合いながら、笛、太鼓のテンポが一段と早くなるのを起点としてすさまじい勢いで拝殿に突進するのである。これを練り込みと称し、獅子舞のフィナーレをかざるものである。現在は、毎年10月第2日曜日の秋祭に舞われている。」高田神社案内板より

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川崎八幡神社の湯立て神事

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▲湯立て神事(写真は2010年) 川崎八幡様年取材記事 

川崎八幡神社縁起 

 鎌倉時代(1185~1333年)後期、朝廷は南北に分裂し、うち続く戦乱に世相は騒然を極めていた。

 元弘二年(1332年)後醍醐帝は、隠岐配流の途中、院庄に駐輦された。
 備前国の忠臣、児島高徳は、杉坂峠(作東町)から御跡を慕い、院庄館で夜陰にまぎれ庭の桜樹に十字詩を奉った。

当事の林田郷川崎村は、吉井川と加茂川が合流して出来た三角州一帯(宇古屋敷)に在り、農耕を主体として生計を営んでいた。洪水による自然災害や、うち続く戦乱のなかで住民は信仰により安住を求めるようになったのであろう。
 元弘元年(1331年、661年前)豊前国宇佐郷(大分県宇佐市)に鎮座する宇佐八幡宮(祭神:誉田別尊「応神天皇」、比売神、気長足姫尊「神功皇后」の三神)を勧請し古屋敷地内に奉祠した。

 慶長八年(1603年、389年前)森 忠政が津山藩主として、信州川中島から、18万6500石を領し入卦、二代長継、三代長義に亘り、石高を増やすため新田の開発を図るとともに、平地から集落を高地へと移転させ農地の拡張を図ったため、実石高は26万石を超えるまでとなった。

 貞享二年(1685年、307年前)三代藩主長義の代に、川崎村の集落は北側の高台(宇寄広)に移転させられた。これにともない、神社も現在地(津山市川崎八幡西1042番地)に遷祠され、社号を弓矢八幡宮と称し安産の守護神として氏子はもとより近隣からも崇敬された。

 境内に三宝荒神社、末社として大歳大明神、惣道大明神、春日大明神、兼田大明神の四社が合祠された。

 現本殿は、近郷まれに見る緻細な彫刻を配しており、文政四年(1821年、171年前)津山藩主、八代松平斉民(確堂)の時代に再建されたものと考察される。(基礎台石に文政治四年三月、石工嘉左衛門の記名がある。) 旧拝殿や舞台、御輿、末社について江戸中期から後期にかけて建設されたものと考えられているが記録はない。先祖代々、崇敬維持されてきた神社拝殿、末社が老朽のため、このたび改築の運びとなったことは、氏子をはじめ関係者の皆様の信仰と郷土愛の賜であり、これを子々孫々に至るまで敬拝、継承を念ずるものであります。(2011年7月18日取材)

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構城址【津山市院庄地区】

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構の城(2011.4.16貞考母子の碑より望む)
 津山市院庄字構にあり、一町四方が城域となっている。はじめ院庄城といったが築城の年代は明らかではない。
 正平15年(1360)、山名時氏とその子師義は兵4千5百騎を率いて赤松貞範の属城を攻めようとして、その将小池中書、福依八右衛門を篠向城(真庭郡久世町大庭)に、淀井丹波守、武田刑部左衛門を高田城(真庭郡勝山町)に向わせ、自分は精兵をもって院庄城を囲んだ。城兵は僅かに六百余りであったので、城将江見八郎兵衛景信および住井吉行、渡辺刑部少輔等は敗死して城は落ちた。村の東南に墓趾があり、この地を吉行といっている。正平17年6月(1362)、山名時氏はまた兵5千を率いて院庄に入り、近国の諸将を招いて備前備中の諸国に向かった。
 その後康正2年(1455)、城将山名掃部頭の上洛の虚に乗じて赤松氏の将中村五郎左衛門が来攻した。掃部頭の子は戦に敗れ城を棄てて伯耆に逃れた。次いで山名氏が大挙来襲し互いに勝敗があって、戦の止むことがなかったという。

元亀2年(1571)、宇喜多氏の将花房職秀が来攻して杉山為国と戦ったが為国は戦死し、職秀の将難波信明もまた戦没した。その墓趾は院庄の西方西町にある。
これより後院庄城を改めて構城とし宇喜多氏は片山秀胤にこれを与えた。天正11年(1583)6月、毛利の兵が構城を攻略したので宇喜多の将花房職之兵を率いて構城を囲み奪い返した。秀家は芦田馬之丞およびその子作内に命じてこれを守らせた。
宇喜多氏が亡んで、慶長8年森氏が入封するに及んで構城を修築しようとして1年余り院庄に留まったが事情があって中止し、今の津山に築城した。寛永15年(1638)、その城跡を壊して大部分を農地とした。
注 天正年間、作備線(現在の国鉄姫新線)の敷設工事のため土砂が掘り採られて、今は本丸跡の一部を残して農地となった。現在その一角に貞考母子の碑が建っている。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

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吉田神社【津山市院庄地区】

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▲吉田神社(2011.4.16)

 津山市神戸字神戸本庄防292番地にあり、祭神は天児屋根の命(あめのこみこと)ほか七柱の神を祀ってある。明治40年、神饌幣帛供進神社に指定せられた。
創立の年月日は不詳であるが、社伝によると、承久三年(1221)、後鳥羽上皇は北条義時のため隠岐の国に流される途次、后宮が御病気になられたので、上皇は美作国神戸郷院荘に御駐輦され、皇運恢復万民安楽の御祈祷を行われるため行在所の西北に方る清浄な地を撰んで諸神を祭られた跡と伝えられ、以来神戸村および院庄村の氏神とされた。寛文四年(1665)、国主森長継が巨費を投じて現在の地に勧請されたことが棟札社伝に明記されているという。
その旧跡は宇古宮の地名として盛土が残っている。長継が造営した社殿は高さ一丈七尺、桁梁二間四方もある美麗を尽くしたもので、同時に社領七反歩も寄進されたという。祭神は京都の吉田神社、奈良の春日神社と同一で、何れも藤原氏の先祖を祭るものとして朝廷や公家の信仰が厚かったものである。長継が何故社殿を移転したかについては詳でないが、苫田郡誌によると「長継深く心を民生に注ぎ大いに力を荒蕪地の開墾及農桑の奨励に致せり。慶安元年には西々条郡布原の原野を開きて香々美川の水を注がしめ、承応元年もじゃ田圃の間に家居する農民に令して山麓に徒居せしめ以って良地を墳塞するの弊を除かしめ」云々とあるから、現在の吉田神社境内は昔から度重なる吉井川の氾濫で砂礫が堆積して河原状の土地であったというから、そこに神社を移し、跡地を耕地とする目的があったのではあるまいか。(院庄公民館創立10周年記念「院庄誌」より)

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女院畔(にょいんぐろ)【津山市院庄地区】

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▲女院畔(にょいんぐろ)2011.3.22

 大字院庄字女院畔107ノ1番地の田圃中にあり、陸上に植えてあった古松は枯れ、墓趾も崩れて小さくなっている。昔、承久の変(1221)に後鳥羽上皇は北条義時のために捕らえられて隠岐へ遷されたが、途中后宮が病を発せられたので院庄に御駐輦になり、病気平癒のご祈祷をせられたが遂に薨去されたのでここに葬られたという。因に后宮は伊賀の局と申され、祈祷所の跡は吉田神社として神戸の氏神となっている。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

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