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御代官 池田仙九郎・重田又兵衛様塚

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 幕府の出先である代官が苛歛誅求(かれんちゅうきゅう)を行なったり、凶作や飢饉に際して救助の手段をとらなかったりの場合が多くあった為か、代官とは冷酷無比と印象づけられている。しかし多くの役人の中には温情をもって政治にあたった者もまた多く、前に述べた早川八郎左衛門のように名代官と慕われているものもある。
 町内にも滝本及び宮内に代官塚が建てられている。文化12年に之を建てたと記されて、寛政末から文化の初めに勝北の地を支配していた代官を祀ったもので、善政を布いた代官の頌徳碑(しょうとくひ)と伝えられている。
 碑面に 御代官 池田仙九郎 重田又兵衛様塚と刻まれている。建碑の経緯はさだかでないが、役人と百姓の温かいつながりが感ぜられる。(文:『奈義町史』)(2024-年6月14日撮影)

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名代官 早川八郎左衛門正紀(久世)

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早川代官の経歴と施政の大要
 代官のうちで早川八郎左衛門正紀(まさとし)は名代官と仰がれ、久世ではいくたの遺徳をしのぶ物語が伝えられている。
 早川が久世を支配したのは天明10年(1787)6月から享和元年(1802)10月関東地廻代官に転ずるまでの14か年であった。この在任年数は数多い代官のなかでも群を抜く、すなわち他の代官では初代窪島の9年、平岡・武島の7年、藤本の5年が長い方で、16名のうち半数は1~2年で交代している。早川に対する管下百姓たちの敬仰の念は、もとより早川の他と異なる施策に対するものであるが、その施策の実現は1~2年の在任では不可能で、この長期在任を基盤にはじめて可能であったということができる。
 しかし、長期在任必ずしも名大官としての施策を生むとは限らない。代官にその人を得ること、教養と経験に富む代官にしてはじめて可能であることはいうまでもない。早川はその点でも秀れた代官であった。

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堀坂の「釜の口用水」トンネル

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▲釜の口暗渠(2012.1.7取材)
 釜の口暗渠は、掘坂上の稲荷山の下を暗渠で掘り抜き、釜の口井堰から加茂川の水を引いて水田の54町歩に潅漑した水の隧道です。これは作北の水の青の洞門(勝田郡誌)といわれています。文政5年(1882年)2月に起工し翌年の3月に完成したもので、その延長は54年間(約100メートル)幅7尺(口径約2メートル)高さ9尺(一部)の規模を有し、それまで北へ水路を掘って水を逆流させて潅漑水にあてていました。工事完成により掘坂水田が、干害の憂いから救われて増産の役割を果たしました。
 建設当時、常陸国土屋藩(茨城県土浦市)の支配下にあった堀坂は、度重なる洪水により井堰の流失に悩まされており、山本吉次郎、曽根興右衛門、左子藤兵衛、曽根源吉、杉田健次郎、本郷甚臓らが近長の名代官亀田清助に請い、銀26貫匁を借り受け金を用意し、代官は和算の大家であった田熊の中村周介に相談しました。
 周介は難問解決のため岩山を利用した暗渠用水を設けることを思いつき、若い甥の中村嘉芽市(17歳)に工事の測量設計をすべて託しました。岩山を両側からくり抜く工事は、藩と地元農民の全面協力により通水したものです。(文:津山市 堀坂町内会発行 わがまちの歴史より)

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