御代官 池田仙九郎・重田又兵衛様塚

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 幕府の出先である代官が苛歛誅求(かれんちゅうきゅう)を行なったり、凶作や飢饉に際して救助の手段をとらなかったりの場合が多くあった為か、代官とは冷酷無比と印象づけられている。しかし多くの役人の中には温情をもって政治にあたった者もまた多く、前に述べた早川八郎左衛門のように名代官と慕われているものもある。
 町内にも滝本及び宮内に代官塚が建てられている。文化12年に之を建てたと記されて、寛政末から文化の初めに勝北の地を支配していた代官を祀ったもので、善政を布いた代官の頌徳碑(しょうとくひ)と伝えられている。
 碑面に 御代官 池田仙九郎 重田又兵衛様塚と刻まれている。建碑の経緯はさだかでないが、役人と百姓の温かいつながりが感ぜられる。(文:『奈義町史』)(2024-年6月14日撮影)

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滝本の代官塚
御代官 池田仙九良 重田又兵衛塚 文化12年正月廿七日
 隠居屋地所助助右ヱ門、東西百姓中、西庄屋 有宗喜右ヱ門、百姓代 儀右ヱ門、東庄屋 吉右ヱ門、同 小坂傅九良、百姓代 伊平・茂平

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代官塚由緒
 重田信征(1752~1815)通称又兵衛、1784年勘定役出仕、東海道及び甲斐の国の河川の普請に功績をあげる。1801年美作国久世代官に就任、勝北郡村々の荒れ果てた姿に心を痛め、幕府より五千両(10億円)の資金を借用して困窮村々の救済と復興に心血を注ぐ。1804年大阪代官に転任したが、引き続き勝北郡村々を支配した。1813年病気のため退任、1815年死去、重田代官の訃報を聞いた北野村の人々は、相談して「御代官塚」を建て、氏の偉業に感謝するとともにその功績を後世に伝えようとした。

 池田但季(1751~1834)通称仙九郎、1784年勘定役出仕、1789年出羽国柴橋代官、1795年大坂代官、1803年大和国五条代官、1810年柴橋代官、1834年現職で死去、五条代官時代「主善館」と称する教諭所を陣屋に設置し、一般庶民を対象に日常儒教道徳を説いた。重田代官とは友人で、共に勝北郡の村々を訪れ、講話などして領民の教化に貢献した。平成30年 月 奈義町教育委員会(令和3年2月25日指定 奈義町有形民俗文化財)

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奈義の現代美術館横の道を北に行きます。     宮内の上土居の辻にある代官塚です。

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二人は名代官として全国的な有名人でした。宮内村(奈義町宮内)にも同様の代官塚が建てられており、多くの人に慕われていた様子が伝わります。地元では現在も二人に感謝する祭りが続けられています。

代官について
・慶長3年(1603)の江戸開府以来、慶応3年(1867)の大政奉還まで264年間の代官の総数は1370余名である。
・1370余名のうち、頌徳碑が建てられているのは約70名である。
・岡山県下では、早川代官(1810)、石黒代官(1959)・重田及び池田代官(1815)のみである。
・代官の手当ては、150俵(約500万円)である。旗本は100俵前後が多いので、代官になれば手当は増える。
・旗本は、1500人ほどであるが、代官に成れるのは40名である。人物がしっかりして、行政能力のある者しか任命されない。
・勘定奉行・江戸町奉行・長崎奉行なども旗本であるが、1500石(1億5000万円)以上の持高がないと任命されない。
・代官は、一生代官で昇進はない。(業績が上がれば、4万石から5万石、8万石・10万石と加増はある。)布衣になれば、将軍から直々に任命状を渡される。
 重田代官は、本来であれば頌徳碑が建てられていてもおかしくない業績を上げている。勝北郡をまとめて建設にもっていくリーダーがいなかったのであろう。また、格調高い漢文を執筆できる人物及び書家を依頼できなかったのであろう。(文:奈義町教育委員会から資料を提供していただきました。)