名代官 早川八郎左衛門正紀(久世)

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早川代官の経歴と施政の大要
 代官のうちで早川八郎左衛門正紀(まさとし)は名代官と仰がれ、久世ではいくたの遺徳をしのぶ物語が伝えられている。
 早川が久世を支配したのは天明10年(1787)6月から享和元年(1802)10月関東地廻代官に転ずるまでの14か年であった。この在任年数は数多い代官のなかでも群を抜く、すなわち他の代官では初代窪島の9年、平岡・武島の7年、藤本の5年が長い方で、16名のうち半数は1~2年で交代している。早川に対する管下百姓たちの敬仰の念は、もとより早川の他と異なる施策に対するものであるが、その施策の実現は1~2年の在任では不可能で、この長期在任を基盤にはじめて可能であったということができる。
 しかし、長期在任必ずしも名大官としての施策を生むとは限らない。代官にその人を得ること、教養と経験に富む代官にしてはじめて可能であることはいうまでもない。早川はその点でも秀れた代官であった。

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 正紀は井上河内守の家臣和田市右衛門直舎の次男に生まれ、田安家の家臣早川伊兵衛正諶(まさのぶ)の養子となったが、明和3年4月16日28歳の時この早川家の本家で幕臣であった早川正与に子がなかったので、その養子となって相続した。この早川家は世禄100俵五人扶持で下谷三味線堀二丁目に住んでいた。
 正紀は明和6年(1769)1月31歳の時勘定奉行所の勘定役に出仕するようになり、以来12か年半、天明元年6月までこの職にあった。勘定奉行所には取箇改(とりこあらため)・諸向(しょむき)勘定帳改・代官伺書査検(さけん)・御殿詰・勝手向出納などに分課した仕事があり、それぞれの主管者には勘定組頭(役高350俵)がいて、その下に勘定(役高150俵)と勘定より格の下の支配勘定(役高100俵)が若干名ずつ分属していた。正紀が在勤したころには、勘定組頭が23人、勘定は232人、支配勘定は50人くらいいた。正紀はこの上役・下役こめて総勢300人におよぶ幕府財政事務機構の中枢部で12か年半務めたのである。代官所の事務もすべてここにつながっていたから、この勤務は代官勤めをする者にとっては最高の教養と職務研修となったであろうことはいうまでもない。

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そのうえ、正紀は久世来任までに代官の実務を出羽尾花沢の代官として経験していた。すなわち、天明元年6月49歳から天明7年6月までの6か年をそこで代官を勤めたのである。この時代は後々までその悲惨さが伝えられた天明3年の全国的大飢饉を中心として凶作が続き、とりわけ奥羽地方はその被害が甚だしかった。正紀がそこで体験した百姓救済策は、久世に来任して単なる凶作に対する対象療法的施策にとどまらないで、百姓町人に対する人間形成にまで深められていった。

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 正紀久世在任中の諸施策については、本章第二節に年貢収取、第十章に赤子間引の禁止や生活の質素倹約、農事に励むべきことの教諭、教諭所・典学館建設等が詳述されている。ここでは多くを語る必要はないが、正紀の年貢収取についてみれば、幕府は享保以来財政収入の安定と収取量の増大をはかって、年貢は「定免」方式の収取に移行させていったなかで、正紀は度重なる風損・早害・虫付きなどによる減収が、定免方式では百姓を一層困窮に陥れるとの判断から、前任者までは定免方式であったのに、寛政3年以降「検見」方式に切りかえて、百姓の生産に即して無理のない収取を進めたことである。幕府の施政方針に抗しても、百姓相続のためにはこれ以外ないとしてとったこの措置は、実は潰百姓が多数出ては結局は幕府のためにもならない道理で、稀にみる見識を備えた代官と称賛されるのも理由なしとしない。
 また、庶民教育のための寛政3年開設の久世教諭所と同8年完成の典学館が、代官所の出費は皆無で、すべて久世村の福島茂作・同助太夫、久世村杉山順庵・金田民右衛門など管下民間出資で賄われたということは、正紀の説きつづけた人倫の道に学ぼうとする姿勢が、庶民を動かし庶民の手でこの灯が点じられたという意味で、近世史上稀にみる美挙といわなければなるまい。

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「贈正五位早川君像」は犬養毅の書

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久世代官所址(久世町指定史跡)早川町
 久世代官所は、現在の上町北側の町裏と重願寺の間にあった。享保12年(1727)津山藩の減地により作西5万石が幕府の直轄地(天領)となり、久世に代官所が置かれた。以後、文化14年(1817)までほぼ引き続きこの地に代官所があった。現在、この地には往時のものは何ひとつ残っていないが、敷地の一画に早川代官の像が建てられている。

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重願寺の交差点で道を隔てた所が久世駅

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重願寺の本堂は火災に遭い焼失

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重願寺楼門(久世町指定重要文化財)早川町
 文化14年(1817)に久世代官所が廃止されたとき、代官所の門を移築したと伝えられる。したがって、普通の寺院の楼門とは異なり、いかめしい武家風の建築様式である。

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重願寺の楼門

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重願寺の楼門

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境内では焼失した本堂が再建予定

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遺愛の碑と夫人の墓
 正紀は久世代官から関東地廻役代官(10万石)となり、武蔵久喜陣屋に文化5年11月5日まで7か年半、70歳になるまでつとめた。そして、この年11月10日江戸の私邸で病没し、江戸本所太平町常在山霊山寺に葬った。戒名は「宝岸院殿到誉源姓離染居士」という。
 その訃音が久世・笠岡に届くや、人々正紀の恩沢を偲び、哀(かな)しみ悼(いた)んでともに泣いたと伝えている。三回忌を迎えて美作・備中の有志の首唱で金屋台の大旦芝(おおだんこうげ)に「遺愛の碑」を建て、その遺徳を永くしのぶこととした。その後この碑の前では毎年「早神様」の祀りが行なわれ、正紀没後77年に当たった明治17年4月13日には、時の大庭郡長三宅武彦が首唱し、郡書記美見孝治他22名の有志が早川久世会として記念式典を挙げ、数千人が集って遺徳を感謝し讃えた。

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 なお、正紀の妻は寛政12年6月1日夫の久世離任の前年に久世で病没し、陣屋の北隣りの重願寺に葬った。戒名は「宝池院殿蓮誉栄香貞薫大師」、側面に「早川八郎左衛門源正紀室、三宅氏之墓」と記されている。重願寺にはこのほか明和5年4月越後代官から転任してきて、翌年8月3日久世陣屋に45歳で亡くなった鈴木小右衛門正栄の妻(正栄の次男で幕府譜請奉行となった鈴木相模守正義の墓碑銘が刻まれている)もある。

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早川代官遺愛碑(久世町指定史跡)大字台金屋
 文化7年(1810)早川代官の三回忌にあたり、美作・備中の有志の首唱で大旦こうげに遺愛碑が建てられた。菊池好直(正因)撰、高島青書。2021年ぼ取材:明親館跡(真庭市指定文化財 史跡)

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典学館址(久世町指定史跡)西町下
 庶民の教化に尽力した早川代官が、管内有志の拠出金をもとに創設した教諭所。寛政8年(1796)三坂小路と呼ばれた西町の金比羅宮北側に建設された。都講(教授)には真野民次ついで菊池正因を迎えた。典学館の教育が、久世の文化や生活に与えた影響は大きかった。

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早川代官略歴
 早川代官は元文4年(1739)井上河内守の家臣和田市右衛門直舎の二男として、江戸に生まれた。後に徳川御三卿の一つ田安家の家臣早川伊兵衛正諶(まさのぶ)の養子となったが、明和3年(1766)幕臣であった早川宗家にあと継ぎがなく、許されて宗家を継いだ。その後明和6年(1769)に勘定奉行所勘定役に出仕し、天明元年(1781)までこの職にあった。その間、主に関東諸国の河川工事に功労が多く安永4年(1775)幕府から報奨を賜わっている。天明元年に初めて代官に任命され、出羽尾花沢(山形県)、美作久世、武州久喜(埼玉県)の代官を歴任し数々の善政を施した。文化5年(1806)江戸で病歿し、本所霊山寺に葬られた。

早川代官の業績
 天明7年(1787)久世代官に着任した早川代官が、最初の領内巡見でまのあたりにしたのは、赤子間引きの実態と人口減少によって、放置され荒れ地と化した多くの耕地であったという。
 天明・寛政期(1781~1800)における美作地方の人口は低迷を続け、江戸期における最低の水準になっていた。この直接の原因は、あいついだ飢餓の為、死亡率が大巾に上昇したことによるものだが、当時の美作地方で日常的に行なわれていた赤子間引きの風習が大きくかかわっていたともいわれている。このような状況のもとで、早川代官はさまざまな施作をうちだしていく。
 早川代官の施策の中心となるものは勧業と教育であり「富まして教える」という考え方の実践であったといえる。まず、領民を経済的に立ち直らせる為に荒地や新田を開墾させ桑苗を配布し養蚕を奨励するなどして管内の耕作物等の増収を図り、さらに用水灌漑や治水・河川改修などの環境整備、貯穀・借銀等の農民救済制度の充実を行なった。また、備中吉岡銅山を再興し、べんがら生産を保護するなど産業の振興にも尽力した。一方、領民の意識改革にも積極的にとり組んだ。まず、当面の課題であった人口の減少をくいとめるため、赤子間引きを厳禁するとともに倹約を推奨した。また、領民を教化する為に代官自身が村々をまわって教諭し、寺院に対し檀家教諭を命じた。これらは、後により高度に制度化されたが、中でも典学館の設置は特筆すべきものであろう。
 以上、早川代官の中心的施策について簡単にふれてみたが、このほかにも、トラフダケ(現在国指定天然記念物)の伐採を禁止したり、奥津温泉の年貢を免除して温泉の再興を図ったり、大山みちを通る旅人の為に三坂峠に十国茶屋を設置するなど数えあげればきりがない。
 早川代官が久世を去るにあたって、留任願いが四たび提出されている。このことからも、早川代官が人々に慕われた名代官であったことがうかがえる。(文:久世町教育委員会発行『早川代官』より抜粋)

留任願
正紀が久世を離任するに当たって、管下庶民がその留任を歎願した文章には、正紀在任中の業績が単的に表現されている。一端を挙げると、正紀を「都(すべ)て御陰徳多、下方御労(いた)わり」の方といい、その教諭は「万端行届、愚俗之耳えも入安」く、諸事正路に立帰るこう。
一、寛政七年六月、久世代官宛、久世陣屋存続歎願書(大庭・西々条郡惣代連署)
二、寛政十年七月、勘定奉行宛、早川代官留任歎願書(美作五郡九九か村惣代連署)
三、享和元年四月、勝山藩庁宛、早川代官留任歎願書(美作五郡一三五か村惣代連署)
四、同年四月、勝山藩庁宛、早川代官留年歎願書(西々条郡三か村惣代連印)
  寛政十年   留任願
  美作国大庭郡 四拾壱ヶ村
  同国西々条郡 弐拾壱ヶ村
  備中阿賀郡  十三ヶ村
  同国川上郡  十ヶ村
  同国哲多郡  十ヶ村

(文:久世町史・久世町教育委員会発行『早川代官』より抜粋)(2024年6月13日撮影)
※快く資料の提供をしてくださった真庭市教育委員会の皆様ありがとうございました。


 寛政9年(1797)に幕府は美作における天領の税制を改めて、いままで年貢の三分の一は、津山城下における10月後半の平均米相場によって銀納させていたものを、津山藩の蔵米のせり売り価格によって納めさせようとした。町米と蔵米とでは2~3割の差があったので、農民の負担はそれだけ増大することになった。このことを不当とした天領の村々では、寄合が行われ不隠な空気がかもし出された。生野代官所の管下の114か村の総代(村役人)は11月西西条郡薪森原村(現鏡野町)の庄屋遠藤伴内の宅に集まって相談し、伴内と真経村の庄屋久右衛門とが総代として代官所に訴え、聞き入れられないときは江戸の勘定奉行へ越訴することにした。その後、美作の天領全体がこの運動を進めることとなり、翌年2月江戸越訴を敢行することに決し、久世代官所管内の大庭郡目木村福島甚三郎、生野代官所管内の勝北郡広戸村孫兵衛、久美浜(京都府)代官所管内の吉野郡中山村利右衛門、および竜野藩の預り所であった英田郡三海田村善兵衛と勝南郡池が原岡伊八の五人が総代に選ばれ、翌3月江戸にのぼって勘定奉行柳生久通に哀訴したがいれられなかったので、4月ついに老中松平伊豆守の登城を見計らって駕籠訴し、6か月の投獄ののち願いが聞き届けられ10月無事帰国した。この一揆で、一人の極刑者を出さず要求がすべて認められたことは稀なことであるが、このことは、久世代官早川八郎左衛門の援助が裏而にあったからだと伝えられている。なお、村役人たちが小前百姓の先頭に立って闘ったことも珍しいが、それは、かれらがいずれも高百石以上の田畑をもつ手作地主だったこと、小前百姓の主導のもとで闘争が行われた場合には、村役人たちは打ちこわし対象になることが明らかであったことによるものであろう。(岡山県の歴史による)(文:『奈義町史』より抜粋)