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取材記事内を検索ワード「美土路昌一」で検索した結果,4件の記事が見つかりました。

津山文化センターの冬

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津山文化センター(2017年2月4日撮影)
「日本におけるモダン・ムーブメントの建築115選」に津山文化センターが選ばれる。
「モダン・ムーブメント」は「18、19世紀に端を発する合理主義的・社会改革的な思想や技術改革をベースに、線や面の構成による美学に基づいて、40年代から世界中で作られはじめた建築」を意味し、日本でもその影響を受けたデザインが試みられています。
2006年8月に津山文化センターが115選に選ばれる。

選ばれた基準は
1.装飾を用いるのではなく、線や面の構成による美学が適用されている。
2.技術の成果がデザインに反映されている。
3.社会改革的思想が見られる。
4.環境形成(広場や建築群の構成)という観点でデザインされている。ということだそうです。
115選の中には大原美術館分館、出雲大社庁の舎、神戸ポートタワーなどが選ばれている。

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本光寺と椿の花(津山市一宮)

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2015年12月7日に本光寺を訪問してきました。ここの風景は今にも長継公が出て来そうでロマンを感じる所でとても好きです。その長継公(長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の重臣だった。)は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物だったのです。(2009年に取材したのに詳しく描いておりますのでどうぞ)

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津山高校創立100周年記念館

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予てから河原先生にお願いしていた「津山高校創立100周年記念館」を取材させていただいた。とても立派な建物ですが、敷地は嘗ては美土路邸(美土路昌一<元朝日新聞・全日空社長、津中5期>)だったそうです。今は生徒集会や講演会、発表会、部活動、同窓会の会議などに使用しているのだそうです。(2012.7.30)
津山高校創立100周年記念館の建設
 記念館の建設は、津山高校100周年記念事業の中心で、開校後の最大事業となった。
記念館の建設地
 100周年記念館は当初、津中30周年記念館と旧格闘技場の跡地に建設する計画でしたが、最終的には岡山県が、1994(平成6)年12月6日に本校向かいの敷地を買収し、建設用地とした。同12月26日には敷地内の旧美土路邸が岡山県に寄贈され、再利用する構想だったが、老朽化のため撤去された。
記念館建設へ
 建設費は、100周年記念事業に寄せられた同窓会員の募金によった。
1996(平成8)年3月25日、津山高等学校創立100周年記念館が着工され、同年8月31日に竣工9月28日に落成式が挙行された。ついで10月1日には岡山県に寄付採納され、同窓会会長から、正面の時計が寄贈されている。
記念館は「100’HALL」と命名された。
(文:岡山県立津山高等学校「津山高校創立100周年記念館の建設」より抜粋)
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津山人「全日空を創った 美土路昌一氏」

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津山市一宮の本光寺参道の前の小路を上がってゆくと美土路昌一氏の墓があり、横には碑が建っている。右上には「言論自由の語は之を守る為め死を辞せざる者のみ言い得る言葉なり」とあり、下方には「この夏は越せそうも無き米寿かな」とある。後者は死の三日前の絶筆である。

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↑2015年12月7日現在は先祖代々の墓地で静かに眠っておられます。

(美土路昌一氏は明治19年7月16日中山神社の社家の一軒で生まれた。)

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美土路家(現津山高校100周年記念館)の前の津高の門を入ってすぐ、よく伸びた二本の松がある。これは、はじめて空を飛んだライト兄弟の飛行場の松の種をもらって、母校の庭に寄付して植えたもの。

よく言っていた言葉「一歩退って人に接せよ」、「何ごとも、まず相手のことを考えよ」、「水流先を争わず」文:津山市文化協会「津山の人物」より)


 「現在窮乏、将来有望」これは津山市出身で市の名誉市民 美土(みど)路(ろ) 昌一(ますいち)氏が全日本空輸(ANA)の前身である「日本ヘリコプター輸送株式会社」創立時に掲げたスローガンです。

1886年(明治19年)、苫田郡一宮村(現:津山市一宮)で生まれた美土路 昌一氏は、旧制津山中学を卒業後、文学を志し早稲田大学文学に入学されました。苦学の中、文学の道を断念され大学を中退後、朝日新聞社に入社されました。

 入社後は第一次世界大戦(青島戦)に従軍されたほか、上海、ニューヨーク特派員を経た後、編集局長として神風号による東京‐ロンドン間の記録飛行を成功に導くなどの活躍をされました。
 その後、日本は戦火の渦に突入しますが、戦中、編集局長、常務取締役と朝日新聞社の要職にあった美土路氏は言論の弾圧にさらされます。

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