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取材記事内を検索ワード「苫勝霊場」で検索した結果,6件の記事が見つかりました。

修験者の堂・圓満寺

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修験者の堂・円万寺 毎年8月祈祷祭続く
 勝北町坂上の国道五三号線から、北側にわずか入ったところに、カリンの大木が聳える堂が見える。土地の人からは行者堂または円満寺(円万寺)と呼ばれ、かっては苫勝霊場三六番の札所であり、数年前に改築が行われよく整備されている。この寺について「勝加茂史」には、真言宗醍醐派三宝院の末寺円万寺花王院、元禄十一年(一六九八)あるいは天明二年(一七八二)の創立ともいわれ、本尊は如意輪観音と載せられている。
 せんねんの町文化財保護委員会の調査では、木造の役行者像や数体の仏像と鋳鉄製の高さ十二cmあまりの如意輪観世音菩薩像一体があった。この観音の台座には、施主流郷重郎右衛門・全吉左衛門・全株内、冶工作陽柱百済清治郎藤原正邦作の銘があり、施主名などから江戸時代末期ごろの作品と思われる。

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文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩くNo.2)

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2018年3月10日の晴れた日に、津山郷土博物館主催の第114回文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩く)に参加して来ました。八幡神社から続いて向かったのは、西賀茂神社(杉さま古墳群・ナナミノ木)→苫勝霊場78番と石造物群→成名公民館駐車場までです。

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勝北の苫勝霊場第78番 本尊:地蔵大菩薩

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 旧勝北町の苫勝霊場第78番(本尊:地蔵大菩薩)いつも通るたびに気になっていた霊場です。
ご近所の土井さんにお聞きすると、旧勝加茂村の時はこの地区を下村と言っていたそうです。ここの霊場は昔から大勢の人が霊場めぐりで参られていたそうですですが、今は誰もお参りする方は居られないそうです。(撮影:2014年7月6日)

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東賀茂神社隣の安井大師堂

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 勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)

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お大師堂(下高倉東字溝の内)

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 下高倉東公会堂の東真向いの山すそにお大師堂がある。古くからこの場所には苫勝霊場第3番札所の大師堂(本尊 聖観世音・薬師如来・弘法大師)があって、戦前の霊場巡りが盛んな頃は、甘酒などを振る舞い賑わっていた。

 平成2年に下高倉東全戸からの浄財によって改築し、有重(ありしげ)にあった苫勝霊場第52番札所の観音堂(本尊 十一面観世音・伝教大師)を合祀した。堂内には二つのお堂の本尊が安置されている。

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河面 苫勝霊場めぐりの信仰上原のお大師堂

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 上原の丘陵端に民家より少し離れて、新築整備されたお大師堂がある。掲げられている額に、「苫勝霊場 第十九番本尊 地蔵菩薩」とある。 
 苫勝霊場○○番とは、かつての苫田郡・勝田郡地域の八十八ヵ所めぐりの札所(観音霊場)を言うのであって、戦前の八十八ヵ所めぐりが大変盛んであった歴史を伺わせるものである。霊場めぐりは、農閑期の春先に遍路姿で杖をつきながら歩き、数十人の団体で巡回していた。数日がかりの巡回のため、時折、上原中の民家が総掛かりで遍路宿をつとめ、世話をしていたと言う老人の話である。

 そもそも、八十八ヵ所めぐりは、観音信仰に由来し、観音霊場三十三ヵ所札所めぐりの発展した、四国の八十八ヵ所(弘法大師霊場)めぐりを示すものである。八十八基の石仏などを並べてあるのは、この霊場(札所)詣での写しで、多くの場合は、石仏などの前に、そこに示した寺院の土を埋めてお砂踏みをし、参詣と同じ意味を持たせている。八十八ヵ所の札所に参ると、それぞれ米粒を供えていく「御撒米」や、5円、10円などの硬貨を1枚づつ「御賽銭」として供えていく形の信仰は今も続いている。

 歴史的には、養老2年(718年)に西国三十三観音霊場が創設されて、弘法大師(空海)のゆかりある四国八十八ヵ所霊場が、平安初期(920年頃)創設された。一般大衆が、本格的に霊場巡りをするようになったのは、明治の20年代からと言われ、四国の場合徒歩で約60日かかっていた。そのため、苫勝の事例のように、全国各地にこれに代わる数日で参拝できる巡礼コースが創設された。

 上原の19番霊場は、四国八十八ヵ所19番霊場である徳島県小松島市の立江寺の本尊=延命地蔵菩薩を勧請されている。立江寺は、聖武天皇の勅願寺で、弘法大師の刻んだ仏像があり、阿波藩主蜂須賀公により再建された古刹である。地蔵菩薩そのものは、観音の化身の姿であり、延命地蔵は、人の苦しみを救うばかりかいざという時、身代わりとなって災難から助けてくれる、霊場あらたかな地蔵尊として信仰が厚い。上原では、一時、薮の中で薄汚れていた石仏であったらしいが、今再びよみがえり、毎日のように線香や蝋燭が絶えない住民の熱心な信仰が続いている。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012.9.17

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