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田熊 南北朝動乱時代の山城 下木の岩黒城址

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 ▲田熊(たのくま)南北朝動乱時代の山城 下木(したぎ)の岩黒城址(いわくろじょうし)
 広戸川を渡り、下木の集落から東の山手に上ると、高い所に公会堂がある。この公会堂の上の平坦な丘陵地が、岩黒城址(いわくろじょうし)と言われている。
 今は、全く畠となっているが、ここからは、田熊や野田(勝北)の水田地帯や日本原高原の景色が一望できる。一方、田熊の水田地帯から城址を眺めると、平地に突き出た山裾の丘陵を利用した山城であることがよく分かる。
岩黒城址については、美作古城史(三)に次の記述がある。
 「津山市田熊(元勝田郡広野村)に岩黒城址があり。井上蔵人(いのうえくらんど)の居跡と伝えられ、東作誌には、古城 岩黒城 城主井上氏今は百姓持林となる。堀切の跡纔(さい=わずかに)見ゆ 少し切りならしたる跡ある而巳(のみ)なり 云々と載せてあり、古城麓に現存する井上氏がこの城の関係者として伝えられている。」(2012.1.9取材)

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堀坂の「釜の口用水」トンネル

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▲釜の口暗渠(2012.1.7取材)
 釜の口暗渠は、掘坂上の稲荷山の下を暗渠で掘り抜き、釜の口井堰から加茂川の水を引いて水田の54町歩に潅漑した水の隧道です。これは作北の水の青の洞門(勝田郡誌)といわれています。文政5年(1882年)2月に起工し翌年の3月に完成したもので、その延長は54年間(約100メートル)幅7尺(口径約2メートル)高さ9尺(一部)の規模を有し、それまで北へ水路を掘って水を逆流させて潅漑水にあてていました。工事完成により掘坂水田が、干害の憂いから救われて増産の役割を果たしました。
 建設当時、常陸国土屋藩(茨城県土浦市)の支配下にあった堀坂は、度重なる洪水により井堰の流失に悩まされており、山本吉次郎、曽根興右衛門、左子藤兵衛、曽根源吉、杉田健次郎、本郷甚臓らが近長の名代官亀田清助に請い、銀26貫匁を借り受け金を用意し、代官は和算の大家であった田熊の中村周介に相談しました。
 周介は難問解決のため岩山を利用した暗渠用水を設けることを思いつき、若い甥の中村嘉芽市(17歳)に工事の測量設計をすべて託しました。岩山を両側からくり抜く工事は、藩と地元農民の全面協力により通水したものです。(文:津山市 堀坂町内会発行 わがまちの歴史より)

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田熊の赤ひげ先生【田熊の医師井上先生の頌徳碑】

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田熊 明治初年恩徳の医師井上先生頌徳之碑
 通常、植月線と呼んでいる道路=主要地方道津山大原線を、河面(こうも)から田熊(たのくま)へ向けて行くと、田熊分に中鉄バス八ヶ原駐車場がある。この付近の向かって道路右側横に、医師井上先生の頌徳碑(しょうとくひ)が、建立されている。
 作州の場合は、幕末から明治の初めにかけて医者は、ほとんどが大阪や京都などへ勉学に赴(おもむき)き、苦労してその資格を得ているが、その割りに報われず、まさに「医は仁術(じんじゅつ)」として、奉仕の生活を余儀なくされた。 

 田熊のある老人の話によると、自分の祖父は医者であったが、家族の者に間違っても、子孫は医者にするなと遺言を残して亡くなったという。その話を要約するならば、懇意にしている農家の嫁さんが、かなりの重い病にかかった。何としても治療を思い、当時、長旅をかえりみずに京都まで良薬を求めて行き、その後も献身的な面倒をみた。やがて、薬石の効があって健康を回復し、共に喜んだのはよいが、治療代の報酬はというと、年の暮れに八ヶ原池で捕れたカモ一羽だけだったそうである。医者をしておれば、身代をつぶすというわけである。この話は、一方の庶民の側からみると、それだけに当時の医師はありがたい存在であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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親子ふれあい体験「青空のもとトトと遊ぼう」

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親子ふれあい体験「青空のもとトトと遊ぼう」日時:平成23年10月10日(月)体育の日AM9:00~PM11:00開催場所:(鶴山公園の東側)宮川の一部区間・指定した場所
体育の日、小学生以下を対象にニジマス釣り(150kg)があり、子どもたちは勿論ですが、付き添いの家族も大いに楽しんでおられました。低学年の方には、つかみ取りコーナーもあり、子供たちはニジマスをつかもうと服がびしょぬれになりながらも大はしゃぎでした。主催:トトと遊ぼう実行委員会、共催:吉井川漁業協同組合、後援:津山市・津山市教育委員会

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酒場放浪記でお馴染みの吉田 類さん、津山に現る。

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酒場放浪記でお馴染みの酒場詩人吉田 類さん、津山に現る。(2011.8.24)

「酒でつながる酒縁社会を目指しましょう!」と無縁社会に一石を投じるメッセージを頂いていましたが、この度、震災後、人とのつながり、絆の大切さを更に気づかせてくれることになりました。

稲葉伸次さんの「この日を待ちわびて来た」と熱い思いの挨拶の後、吉田さんにお願いしたお題は「酒縁社会は地方のまちを救えるか?」ということでした。

吉田さんは「西東三鬼が大好きで津山の歴史散策をされたそうです。そして「津山という町、こんな町はない!洋学の歴史に興味がある!」等などと津山を多いに語って盛り上がった酒縁社会でした。

吉田類さんを呼ぶ会(代表 石原祐佶、副代表 舩岡重勝、幹事 稲葉伸次)


 吉田 類(よしだ るい)さんは、1949年6月1日生まれ、高知県高岡郡仁淀村(現吾川郡仁淀町)出身の酒場詩人。シュールアートの画家として主にパリを拠点に活動後、イラストレーターに転身。1990年代からは酒場や旅に関する執筆活動を始めるかたわら、俳句愛好会「舟」を主宰している。高知県観光特使でもある。

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吉井川の河川敷とほのぼの住人

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▲朝6時頃の吉井川の河川敷は、空気が清々しく生き返ったような気がしました。また、お散歩中に出会った見知らぬ人達が「おはようございます。」と声をかけてくださったのです。気さくなみなさんとの触れ合いで、なんだか幸せをいただいたみたいで嬉しかったのです。(2010.7.6取材)

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